第五十一集「残り時間」
「もういいわ! 私は王后になるのであって、仕立屋になるわけじゃないんだから!!」
また始まったよ……。椅子から立ち上がり、床に投げつけられた夜着――と思しき白い布を拾い上げながら、瑛明は小さく息を吐く。
仮病による体調不良と、依軒の監視下でのやはり仮病による体調不良と、そして中相の(傍目には突然の)訪問が重なり、芳倫との習い事が再開されたのは、一週間ぶりである。
しかし、そんな空白があったとは全く思えないいつもながらの展開がどうにもおかしくて、口元が緩むのを止めることができない。
途端に鋭い声が飛んで来た。
「ちょっと瑛明さま、何がおかしいの! 私よりほんの少し裁縫ができるからって……」
ここで「まあまあ」と宥めるのがいつもの流れである。だが。
「そのとおりですよ」
振り返りざまに瑛明が放ったその言葉に、火鉢が温めている室内の空気が、すうっと冷えた。二人の間を行き来していた師の笑顔が引きつり、芳倫すら驚愕の表情で固まっている。
瑛明はそんな芳倫に歩み寄り、蟠った白い布を差し出しながら、
「おっしゃるとおり私はそんなに裁縫がうまくありませんし、私よりうまい人はたくさんいます。私ならそういう方にお任せします」
差し出された夜着もどきを、芳倫は驚きに目を見開いたまま素直に受け取った。
「私たちに競うべきところがあるというのなら、たいしたことのないお互いの腕ではなく、王上のお役に立つ優秀な人材をどれだけ抱えられるか――ということではないですか? 貴女は、有能な人物が心からお仕えしたいと思えるよう、凛々しくあればよいのです」
まっすぐ見上げてくる目から、驚きの色が消えている。この目は嫌いじゃない――強い光が宿り始めた目を見返しながら、瑛明は続けた。
「とはいえ、何事も基本を知っておいて損はないと思います。『良し悪しも分からない』と陰で嗤われぬよう、努めてまいりましょう」
「そんなこと、言われるまでもないわ!」
たちまち色めく芳倫を横目で見ながら、やれやれと密かに息を吐き、瑛明は自席に戻った。
座面に置いた夜着を拾い上げて座り、
「ですよね。じゃあ続けましょうか」
そう隣の席に目を向けると、芳倫は膝上で夜着を握りしめたままうつむいている。心なしか、顔も上気しているようだ。
言い過ぎたか……瑛明が僅かに眉を寄せると、「――じゃあ」か細い声。
「これは瑛明さまがもらってくれる?」
「え?」瑛明がきょとんとしていると、
「だって、こんな不調法なもの、王上には差し上げられないじゃない。それでなくても投げちゃったし……」
確かに――思わず苦笑する。
まあいいか、後始末でも練習台でも、それで気が済むなら。
「ありがとうございます、よろこんで」
「あと、これが終わったら遊びに来てくれる?」
また『甘い』時間か。久々だし、それもいいだろう。あと何回あるか分からないし。
「お招きいただけるなら、よろこんで」
「じゃあ、始めましょ」
そう言って再び針を持った芳倫の機嫌は、すっかりよくなったようだ。
やれやれ、思いながら瑛明は「はい」と笑顔で頷いてみせた。
そうして、ある早朝。
璃音が王の傍らに置いた茶碗から、白い湯気が立ち上っている。寒さも増してきた。もうすぐ年が明けるもんな。そんなことをぼんやりと思う。
こうやってお会いできるのはあとどれくらいだろう――そう思うと、胸に痛みが走る。そのたび、「次は正々堂々とお会いできるのだ」と言い聞かせ、自分を慰めた。
「これ」
璃音が扉の前に引いたところで、王が懐から小さな包みを出してきた。
僅かに弾んだ声を上げながら手早く解かれたその中から出てきたのは、市で、『小妹』がなかなか手放そうとしなかった、寄木細工の小箱だった。
何で、と思う間もなく、「志按が持ってきた」王がさらりと言った。
「――父が?」
思いもよらない言葉に、瑛明の声がにわかに裏返る。
「ああ。志按は市や城外で見つけた目新しいものを見つけては、贈ってくれる。もちろん、伝統の品もな。おかげで私の部屋は、なかなかに面白い」
市や城市で、自分で探し回っているのか?
もしくは家の誰かに――いや、腕の立つ達人をあちこちで抱えているのかも。
もしかして自分でも作ってる? あの人ならできそう。器用だし。茶の淹れ方もさまになってた。一見文人風なのに意外と力もある。あれはちゃんと鍛錬している身体だ。
『敬愛している』それは――当然か。
つまり、俺が宮中を下がって王上に会えない間も、中相は参内して、王上お好みの品を贈り続けるのか。
そのたび王上はお喜びになられるのか。
なんか――腹立つ。
「王上は、新しいものがお好きですか?」
奇抜なもの、と言いかけたが、そこは言葉を選んでおいた。
王はしばし思案顔だったが、
「そう、なのかもしれない。志按がくれる珍しい話や礼物を私が喜ぶのを、璃律は――不思議そうにしているから」
王が口にした名前に、にわかに胸の底に苦いものがわく。あいつはずっと王上のお傍にいるんだな。それも子供のころから。
そしてこれからも――思ったら、いっそう胸の底が澱む。恐らく「不思議そう」ではなく、もっと露骨に態度に出しているんだろう。王上が庇ってるのは明らかだ。
面白くない。
「そんな怖い顔をするな」
目を上げると、困ったように笑う姿があった。
「あれは、幼い頃から重責を背負わされて私の傍にいるものだから、私を案じるあまり、行き過ぎる時が往々にしてある。まだ若い、大目に見てやってくれ」
――あいつ、俺と同い年だったよな確か。何だよそれ、いっそう面白くない。
「そういう瑛明も、なかなかに好奇心旺盛だ。志按の血かな。姿も似ているしな」
話を変えてきたな――カチンと来たけれど、王に気を遣わせたのは、間違いなく自分の大人げなさだ――思い至って瑛明は、自分の振る舞いを恥ずかしく思った。だから務めて明るい声を出し、
「そう、言われます。でも……」
「でも?」
「雰囲気だけ、って気はしてます」
あれだけ凄みのある美男美女の子としては、「あれ?」って思うことが、よくある。鏡の自分を見ると、目が小さいとか鼻が低いとか、色々な点が気になってしまうのだ。
まあ雰囲気と化粧と、手足の長さと(女にしては)背が高いということで、周りがごまかされてくれてるからいいか、と思ってはいるのけれど。
それよりはずっと――。
「なんだ? 私の顔に何かついているか?」
「いえ、そういうわけでは」
瑛明は慌てて卓上の茶碗に手を伸ばした。さっき璃音が用意してくれた時は猛然と湯気が立っていたのに、すっかり温くなっている。




