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きみは最果ての光  作者: 天水しあ
第一章『外界』
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第五集「桃花」

 翌日。

 瑛明は舟上にいた。


 天上の日を浴び、川面は煌めいている。

 川辺に茂る緑樹の遙か奥には、切り立つ岩山が林立し、人気はまるでない。

 瑛明は舟を木陰に入れ、笠を顔に載せて横になっていた。古の聖人よろしく、釣り糸を川面に投げて釣果を待っている。


 聞こえるのは両岸に迫る葉のさやぎと流れる水音。時折鳥や、猿の哀切ある声が響く。初春の空気は温かく、舟の揺れは心地いい。

 その心地よさの中で、瑛明は微睡んでいた。


 どれだけの時間が経ったのか――ふと目が覚めた時、瑛明は強い違和感を感じた。


 笠をどける。視界は深い霧に包まれていた。

 あんなに晴れ渡っていたのに――思いながら慌てて身を起こすが、何も見えない。

 だが先ほどはなかった、むせ返りそうなほどの芳香が辺りを満たしていた。

 舟はゆっくりゆっくりと、川面を滑っている。芳香は増すばかり。この香り、これは……。


 「わあ……」思わず声が上がる。


 たちまち霧が晴れた両岸は、いつのまにか春色に染まっていた。一本の雑樹すらない見事な桃林が川沿いに延々続いている。水面を数多の桃の花片が流れ……「え」声が漏れた。花片が、舟とは逆方向に流れてる。


 ――どうして上流に進んでいるんだ!?


 流れる水は、花片が溶け出したような桃色。

 人の世のものとは思えぬほどに美しい風景。まるで「あの物語」のようじゃないか。


 そこまで思い至ったとき、瑛明は慌てて釣り竿を放り出し、竹竿を取った。下流に向けて必死に漕ぎ出す。だが舟はなかなか進まない。桃花が舟を水面に絡みつけているようだ。


 竿で水を叩きつけ、かき回し、花片を舟から引き剥がして必死に漕いだ。全身から汗が吹き出し、腕も痛い。なのにまったく動いている感じがしない。


 そうして、どれくらいが経ったのか――。


 次第に川面から桃色が薄れ、少しずつ舟が動いているのが分かるようになり、いつしか両岸の桃木は消えていた。

 津に着くと、もどかしく舟を繋ぎ、瑛明は駆け出した。息を切らせて家の扉を開けた時、母は横になっていた。耳を澄ますと僅かな呼吸音。


 ――よかった、寝てる……。


 安堵の息を漏らしたら、どっと疲れが出た。扉に縋ることでどうにか態勢を保つと、瑛明は眠る母に背を向けた。まずは水を飲んで落ち着こう。濡れてるから着替えて。それから。


「瑛明!」


 鋭い声に振り返れば、いつしか母が牀台から立ち上がり、だけでなく、ここ最近の体調では信じられないくらいに素早く、こちらへと寄ってきた。滅多にない驚愕の眼差しで。

 怖いくらいに真剣な眼差しで見上げられ、気圧された瑛明が思わず後ずさったら、追いかけるように白い手が伸びてきた。


「これは?」

 細い指が肩からさらったのは、桃の花片。


「あ、それ? 今日川に漁に行ったら、うっかり寝込んだうちに桃林に迷い込んじゃってさ。――こう見ると、随分花の色が濃いね」


 動揺を押し隠し、朗らかな声を上げる瑛明の目の前で、母が突然落涙した。

「どうしたの母さん、具合が悪いの?」

 だがはらはらと涙する母は、「そうではない」とばかりに何度も首を振った。そして、

「やっと……やっと私たちは帰ることができるんですよ、瑛明」


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