第四集「怪異」
「誰もいない――な」
竹林の中、ほてほてと歩いている――ように見せかけていきなり振り返る――を繰り返す。そうやっていつも、帰路を辿るのだ。
というのも――あれは半年余り前、ひどく蒸し暑い夏の日だった。
どうにか市で商売を始めた矢先、バッタリ比呂に会ってしまった。三年ぶりの再会ですっかり青年らしくなっていたが、あの頼りなげな顔と間延びした喋り方に面影があった。
「あれ? 君、どっかで会ったことない?」
「常套の口説き文句ですね」
比呂は塾の同学だから、女装姿は知らないはず――内心大いに動揺しながら、苦し紛れにそんなことを言って笑って逃げたものの、比呂の視線がずっと追ってきているのは分かった。それに気を取られたおかげでヘマをして、面倒な客に延々と絡まれ、それでなくても蒸し暑いのに、売れ残りも大量で、帰り道にはもう、心身ともにヘトヘトだった。
どうにか家に帰り着き、うっとおしく貼りつく衣装を脱ぎ捨て井戸水を被ったとたん「うわあっ!」と間抜けな叫び声。
振り返ったら、そこに比呂がいた――。
「さすがにもういいだろ」
少し西に傾いた日差しを背に浴びながらも、足取り軽く歩き始めた瑛明は上機嫌で帰路につく。背負った籠には、菜っ葉やら袋やらが放りこまれていた。竹細工と竹炭を売った金で買った薬と、多数の顔なじみからいた
だいた売れ残り様々である。
「平和だなあ……」
妻子持ちのくせして母さんに言い寄ってきた野郎が、妾になることを断られた腹いせに即刻貸家を追い出してくれたときには本当に参った。行き場を求めてうろつくうち、何十年に一度という大雨に出くわし洞窟に閉じ込められたときは終わったと思ったけど、雨が上がった洞窟内で倒れてる俺たちを発見したのが、自分の竹林の様子を見に来た趙の成金オヤジ。そいつが母さんに一目ぼれして、家と仕事を提供してくれたってんだから、人生分からない。
一間とはいえ家あるし、野放し状態だった竹林の管理って仕事をもらって日々が送れてるし。筍食べ放題だし、伐採した竹で籠でも炭でも細工物でも、何でも作って売り放題だし。近くの川で魚取り放題だし。鶏たちはせっせと卵産んでくれるし。
でもこの生活が来年も続いてるかって言うと……分からない。
一つ所に留まれない理由の一つは、自分たちに戸籍がないことだ。一般的に戸籍がない者というのは、税を逃れて北から逃げてきたもの、奴隷が雇主のところから逃亡してきたもの、犯罪者というのが相場だ。だから自分たちはその末裔ってことなんだろう、きっと。
だから瑛明は、母親以外の身内を知らなければ、何処で生まれたのかさえ知らない。母親は何一つ教えてくれない。ただ一つ、誰が聞いても嘘だとしか思えない話以外には。
鶏の声が聞こえた。
もうじき家だと分かると俄然足が進む。
開け放しの門も垣根も壁も、全部竹で作られた小さな家が見えてくればなおさらだ。
「ただいま」
が、扉を開けた瑛明の足が、はたと止まる。
竹の衝立越し、牀台の母に寄り添う男の後ろ姿があった。慌てて離れたものの、今まで肩を抱いていたことは明白。
「趙さん、こんにちは」瑛明は、強張る頬をどうにか解き、ぎこちなく笑った。
「おお瑛明。今日は城市に行ったのかい」
趙某は立ち上がると、衝立を回って瑛明の前に立ち、足元に置かれた籠を覗き込んだ。
「はい、母さんの薬を買いに。最近、特に具合が悪いものですから」
だから近寄るんじゃねえよ。
やたら鋭くなる目を隠すように、瑛明は趙に背を向けた。
「趙さんの竹が立派なので、いい細工ができて高く売れました。ありがとうございます。今、お茶をご用意しますね」
「いや、いいんだ。ちょっと様子を見に来ただけだから。城市まで行って帰ってきたなら大変だったろう、ゆっくり休みなさい」
趙はそう言うと、そそくさと家を出て行く。酒も煙草もやらない男だが、その体臭がこの狭い家に満ち満ちている気がする。息苦しさを感じて瑛明は逃げるように外に出た。
どうせそのうち、あのじいさんも老けない母さんを訝しく不気味に思い始めるだろう。
一つ所に留まれない最大の理由――どれだけ年月が経っても美貌が衰えない、全く年を取らない母さんの存在だ。どこに住んでも「怪異だ」と噂され、時に逃げるように、時には追われて、あちこちを転々として、やっとこの山奥で平穏な日々を手に入れた。落ち着いた生活に安堵したのか、母さんはやたら寝込むようになってしまったけど。
そういう俺も、最近ヘンなんだよな。
十六にもなって未だ声変わりしないし、身長もここのところ伸びてない。髭も生えてこないし。みんなが「綺麗だ」と騒ぐ娘を見ても、「ふうん」と思う程度だ。自分が何者かも分からず、明日をも知れぬ身の上で、色恋も何もあったもんじゃないが。
俺たちって、みんなと何が違うんだろう。
このまま年をとらないでどうするんだろう。まさかとは思うけど不老不死? 妖怪?
でも怪我したら傷は残るし、風邪だってひくし、大雨の時は餓死しかけた。
「ああもう、早く迎えに来てくれないかな。『しあん』さま」
思わず口走ってしまって慌てて口を押さえる。そして恐る恐る家を振り返る。だが何の反応もない。よかった、聞こえていない。
『しあん』さま――母さんが夢で名を呼ぶ、
ただ一人の人。一度、雑踏に紛れた後姿をそう呼んで、追いかけたこともあった。
「ダメだな……」目を伏せて、瑛明は呟いた。一つ息を吐き、竹林から差し込んでくる、辺り一面を橙色に染める光源に目を向ける。
『どうしたらいいか分からなくなったら、考え過ぎてしまう前に、気持ちを変えるんだ』
あの日と同じような綺麗な夕焼けを見ると、ふと思い出す。夕暮れの川辺で泣いていたら、通りかかった旅人にそう言われた。
意識して息を吸って、吐いて、呼吸を整えて――、もう十年は前の話だが、若くて整った面立ちだと思ったこと以外、具体的な顔も思い出せない男の教えを今も守っている。
言われたようにしていたら、効果があった気がするし、何より金がかからない――知らず口角が上がるのを感じながら、瑛明はもう一度大きく息を吸った。
「よし」そう声にして、「母さん、今日の夕食だけど」朗らかに言いながら、再び家に入っていった。