第三十八集「母の姿」
王は階段途中で立ち止まったまま、長櫃の底から顔だけを出した格好で、手を伸ばしてきた。
「やはり凛々しいな。さあ行こう」
そう言葉を紡ぐ綺麗に上がる両の口角は艶やかな紅色で、同じ色が美しい額に四点、花びらをかたどって置かれている。肌はいつも以上に白い。
「どうした? 似合わないか?」
「――いえ、余りにお美しくて……」茫然と、瑛明は呟いていた。そんなことを口走った自分に驚いてしまい、「いえ、あの」などと意味のない声を上げてしまう。
王は驚いたように目を見開いたが、すぐさま顔を逸らし、
「馬鹿なことを。まさかとは思うが、男装のときはそうやって女を口説いていたのか?」
「まさか!」
「そうか? 大層な台詞をさらりと言うものだから、慣れているのかと。――まあいい」
そう言うと、さっと身を翻し、王は再び地下に下りていく。数歩下がったところで、
「瑛明、何をしている」僅かに苛立った声。
「すぐに」言いながら瑛明は、長櫃の縁に両手をかけ、中に入った。
地下に続く階段の先、ぼんやり浮かぶ光がある。頭上、室内からの光が数段先の足元を朧に照らしていた。その光を頼りに、後ろ手で段に触れながら、一人がやっと通れるだけの木の階段を、瑛明は滑るようにそろそろと下りた。
数段下ったところで、「お気をつけて」璃音の声とともに、頭上からの光は途絶える。
入れ替わるように、目指していた光がすいっと下がって、足元を照らしてくれた。階段の終わりは、踏み固められた土の地面だった。
「じゃあ行こう、足元に気をつけて」
「どちらへ?」
身を翻し、前へと足を踏み出しかけた王が、瑛明の言葉でその歩を止め、振り返った。
「そういえば言ってなかったな。城市に出る。市に行こう」
絶句した。
王が、市に行く!? しかもこのご様子からして――きっと初めてじゃない。
「嫌か?」
「嫌ではないです。ですが供の者も連れずに人混みに入るなど――御身に何かあっては」
「だからこうやって変装しているんだろう? 下手に供の者をぞろぞろ連れている方が、正体を触れ回って歩くようで却って危ない」
一理あるけれど、でも……。
「それに……」そう言って、王は背後に足を向け、燈籠を掲げる。
目を凝らすと、蝋燭の灯が揺れて強くなった光が一瞬、岩とは違う影を一つ映し出した。
あいつ――そうか。いつも王に付き従うんだよな。でも……。
「安心しろ。体調不良で『王』が休んでいる今、太史はお役御免中だ。この格好の私はただの庶民であって、その言動を記録されることもない」
そう言うと王は正面に向き直り、歩き始める。後を追った瑛明が横に並んだところで小さく息を吐き、
「本来の役務どおり、ずっと『王』に従っていればいいものを、どうしても納得しないものだから――であれば、役務中でないのだから、私の会話を聞く必要はない。姿が見えない距離を保てとは言ってある。だからまあ、気にするな」
彼にしてみたら、「まさに役務中」といったところだろう。不穏分子から大切な主を守らなければ、といったところか。さっきの聞かれてないよな? あの距離なら大丈夫なはずだけど……。見えないのに、鋭い眼光が背中にあてられているのをひしひしと感じ、ぞわっとする。
瑛明は一つ息を吐いて気を取り直し、
「どうやって地上へ? 出入りする姿を見咎められては大事になります」
「ああ、それなら大丈夫。ここの出口は王宮外には三つしかない。そのどれにも一般の者はまず近づけない。一つは王宮の北門外、一つは城市の中央、市の近くにある王宮管轄の竹林内、そしてもう一つは――南の城外だ」
――嗚呼。そういうことだったのか……。
瑛明は、闇に沈む路の先に目を投げた。
どうやって、誰にも見咎められず桃源郷を出たのか、ずっと疑問に思っていた。
母さんは、産まれたばかりの俺を抱いて、この路を通ったのか。




