第三十ニ集「密文」
「随分と楽しくやっているようだな」
やっぱり耳に入っていたか。思いながら瑛明は、「ええまあ」と曖昧に頷いた。
築山に建てられた院子を一望できる亭台で、蓮を模った石卓を挟んで対峙するのは、中相である。
早朝からの政務を終えた昼下がりに、ここ桃花宮の院子へとやってきて、王の厚意で用意された軽めの昼餐を共にし、今、終えたところだ。
様々な異論があったということだが、左相と中相の二人だけは院子にてそれぞれの娘に会うことを許された。給仕の名目で王の侍女が遣わされたが、他に監視するような男衆の姿もなく、ちょっと色々心配になる緩さである。
「左相殿がおっしゃっていた。『いやはや、さすが世間ずれ――おっと失礼、世間慣れされておることよな。純真無垢な我が娘を懐柔するなぞ、赤子の手を捻るが如くであろう』」
やけに甲高い声で言うなと思っていたら、目の前で淡々と卓上を片付け、茶の支度をしていた侍女の口元が歪むのが見えた。
嘘だろう!? 瑛明は驚く。
茶を用意してくれているのは王の乳兄妹であり侍女、そしてあの璃律の姉だという璃音である。
あの、王上の後ろに常に控えている眼光鋭い太史の姉らしく、たまーにお愛想で口元は緩めるものの、細く吊り上がった目は全っ然笑うことなく、何でもそつなくこなしながらすまし顔でいて、隙のない彼女が、笑うなんて――。
瑛明は、中相に向き直り、
「もしかしてそれ、左相の真似ですか?」
「似ているだろう? 実は得意だ」
「それでは失礼いたします」そう言って、璃音は階段を下りて行った。
いつもより足早な気がする。
その姿をしばし見送った後、瑛明は中相に向き直り、
「『懐柔』だなんて、俺は別に何も」
「まあそうだろうな。――ところで、今日は頼まれていたこれを」
そう言って、中相は傍らの包みを石卓に載せた。解かれた紫紺の布から現れたのは、数冊の書である。
瑛明の顔が思わず綻び、「ありがとうございます! あれ、一冊多い?」
「ああ、それはな」中相は積まれた書から一番下の一冊を引き出すと、「これが今、巷の女子に大層人気のようだ」
まさか!
差し出されたそれを、瑛明は半ば奪うようにして手に取る。見覚えある装丁に題字――嗚呼、やっぱり!
目眩がした。
「なんだ。すでに知っていたか」
「ええ。左相家の小姐から」
「四六時中一緒だというのは、あながち間違いではないようだな」
「……暇なんですよ。お話し相手をするはずの王上が、お忙しくいらっしゃるから」
瑛明はそう言って、手にした茶碗を一気にあおる。
さっきまで温かかったのにすっかり冷めている。ここに来たときは、まだ暑いくらいだったのに――思いながら院子に目をやる。桃花源に来たときには桃や白の木槿が盛りだったが、今や桂花も終わってしまった。
なのに桂花茶も、まだご一緒できていない。
「仕方があるまい。父王が急に崩御され、いまだ混乱が続いている。喪が明けた早々から、引継ぎやら様々な儀式やらと並行して政務に励んでおられるのだ。従妹たちと仲良く茶を、という暇はそうそうあるまいよ」
お忙しいだろうことは遠目にお姿を見るだけでも分かる。もともと華奢な方ではあったけれど、さらに痩せられていた。この間お会いした時も、お顔の色はあまり良くなかった。
だけど何もできない。
同じ屋根の下にいるのに、ほんの一言の声さえかけることもできない。これじゃ何のために――。
「次はどうする?」
声に呼ばれる形で、瑛明は目線を中相に戻した。袖に手を入れ、「これを」取り出した一枚の紙片を中相に差し出す。
「おまえは古典も読むが、世俗的なものも好きだな」
参内の日に渡された、竹庵の書を全て記しているという目録の写しを見て、瑛明は読みたい本を紙に書き、中相が次の来訪時にそれを持参するというのが、面会時の決まりごとのようになっていた。
その後しばし談笑し、親子は席を立った。亭台を下りたところに、璃音が控えている。
「王上に、ご厚意感謝いたしますと伝えてくれ。久々に、娘と気兼ねなく、ゆっくり過ごすことができた。感謝している。――帰る前に、うちの侍女にも会っておきたいのだが」
「依軒殿ならあちらで控えられています。自分が行っては亭台が窮屈になるからと」
連日あれだけ甘い菓子を食べ続けていればそうだよな。思いながら瑛明は、薄く笑った。
「そうか。では一目元気な姿を見てから、帰ることにしよう」
中相は先に立って進んでいく。
瑛明はそれに続こうと璃音の前を抜け――「瑛明さま」小さく呼び止められた。
「これを」囁きとともに、素早く手に握らされたものがあった。
「それでは失礼いたします」璃音は一礼を残し、足早に築山の階段を上がっていく。
瑛明は、渡廊で丸々とした笑顔を見せて中相と対峙する依軒の様子を窺いながら、何かを握らされた右手をそっと解いた。
そこには折りたたまれた小さな紙片がある。中から現れた黒々とした文字に、息が止まった。
これは、王上の手蹟だ。




