第三十集「甘い生活」
「で、この廊下が『李花宮』に続いてるの。いずれ私たちが住む『後宮』ね」
「なるほど……」
習い事後の、桃花宮探索である。――もう何度めかの。
『王上の言いつけだから』との言葉で、もう何度も、こうして芳倫に連れ出されている。
「一度じゃ覚えきれないでしょうから」と彼女は言うのだが、複雑怪奇な竹林に居を構えていた瑛明にしてみたら、ここ桃花宮は広大ではあるものの非常に単純な造りで、一度歩けばその全体図がほぼ把握できた。安全面が心配になるほど。
ましてこう何度も歩いては、もはや目を瞑ってでも自室に帰れそうだ。
そして探索後は決まって、「家からとても珍かな菓子が届いたの。きっと召し上がったことはないでしょうから、お味見させて差し上げるわ」と部屋に招かれる。
嗚呼、また甘いヤツ……。
蓮型だったり鳥型だったり表面胡麻だったりしたけれど、茶色のとにかく甘ったるい塊が鉢に山盛りにされた様が目に浮かび、げんなりする。
甘いものは貴重だし、あれだけ雑味のない甘さはかなりの高級品なのだということは分かる。
でも贅沢な話ではあるけれど、高級品なら何でもいいわけではないことを、俺は知ってしまった。
しかしどうにか感情を収め、「いつもありがとうございます」笑顔を作る。
一度「喪中ですから、このような贅沢品は……」とやんわり断ったら大層驚かれ、「喪中だから、控えめな品をご用意しているのよ」と言われたから恐れ入った。控えめじゃない品は、一体どれだけの甘さなんだ。歯が外れるんじゃないだろうか、多分。
さりげなく背後に目を流すと、依軒が嬉しそうにしている。
神妙な面持ちで目を伏せているが隠し切れていない。付き合いで一個食べるのだって俺には苦行でしかないのに、「部屋でおあがりなさいな」と大量に渡される菓子を綺麗に平らげるのは依軒だ。彼女が嬉々として甘味の山を崩しているのを見るだけで、胸がやける。こっちに来て明らかにふくよかさが増したし。
まったく、女は何だってかくも甘いものが好きなんだか。
さらに。
「これ、貸して差し上げるわ」
そう言って芳倫が卓上に積み上げたのは、数冊の書だった。
「最近流行りのものよ。巷の女の子はほとんど読んでいると思うわ」
「へえ」これは中相の蔵書にはなかったな――思いながら瑛明は一冊手に取って、ぱらぱらと捲ってみたのだが……。
目眩がした。
「どう? 面白いでしょ? そう、その頁! そこの告白場面の台詞、素敵過ぎない!?」
悲鳴か歓声か分からぬ声を上げながら、頬を少し赤らめている芳倫。
どうやら本当に俺をからかうためとか、まして俺の無知を笑うためとか、そんなんじゃないらしい。何かくねくねしてるし。
「貴女も、こういうのを読んで少しは女らしさを勉強なさいな。王后じゃなくたって、王上にお仕えする身になるのだから」
いいのか? 俺が王上に嫁しても?(実際は無理だけど。そして自分が王后ってのは確定事項なんだな)
そして本気でこの本を俺に薦めているな。
――でもこの頁音読させられたら、俺、愧死する自信ある。
いや待て。ロクに読まないでアレコレ言うのは良くない。もうちょっと読み進めたら、もっと違う展開が――思い直した瑛明は、意を決して、最初から頁を捲り始めた。
だが。
「すみません、無理です……」
言うなり勢いよく閉じた本を両手で芳倫に差し出し、瑛明は卓上に突っ伏さん勢いで深々と頭を下げた。
もうなんていうか、顔が熱い。これなら、激甘の菓子を三つ食えと言われる方が遥かにマシだ! 致死量なんじゃと思うくらいの激甘、かつ無茶苦茶な文章と台詞が焼き付いてしまい、今晩は悪夢にうなされそうだ。
「ええっ、このお話がダメなんて貴女、女の子としてどうなの!?」
顔が見えなくても頭上に投げかけられるその声で、芳倫が不満げに頬を膨らませているのは分かる。分かるけど!
芳倫が大きくため息を吐くのが聞こえた。
「まあいいわ。考えてみたら、私たちの趣味嗜好が似てしまったら、王上には面白みがないでしょうしね。――分かったわ、貴女に足りない女らしさは私が担当することにするわ。貴女は王上のお話し相手が務まるように、せいぜい難解な本を読んでおきなさい」
いつものお返しとばかり傲然とした態度で言われたけれど、腹は立たなかった。
お互い、訪問が許されているのは官僚たる父親のみで、それだって僅かな時間でしかない。話し相手をするはずの王は政務に忙しく、こちらも滅多に顔を合わせない。
有り余る時間を、何もかもが用意されるただ広いだけのこの桃花宮で、家から連れてきた僅かな侍女と過ごすしかない。
要するに、暇なのだ。
だから最初は単なる暇つぶしだったんだろう。俺にかかわってくるのは。
だけど今は、かつてのように敵を見るような目を俺に向けてくることはない。
血で血を洗う権力闘争序章を覚悟してここに来た身としては、いささか拍子抜けである。こんなに穏やかで楽しい時間を彼女と過ごせるなんて、思ってもみなかった。
「でも」
芳倫の声が僅かに改まった気がして、瑛明は顔を上げる。彼女は毅然とした様子で瑛明を見つめてきて、
「人には得手不得手はあるものだけど、こんな程度の話で取り乱してどうするの。『初心さ』が売りになるような、そんな年じゃないでしょ。それに、もうじき後宮に入って『房中術』を学ぶ身なんですからね、私たちは」
目眩がした。
まさかこんな、『女子話』をするなんて、全然! 少しも! 思っていませんでした!
「分かったわ。今度はもう少し読みやすい本を用意するから。だって少しでも一緒に盛り上がれた方が楽しいじゃない。これからはずっと一緒にいるんだから」
さも当然とばかりに芳倫が言うのに、瑛明は薄く笑うことしかできない。だって。
彼女と一緒に後宮に上がる日なんて、絶対に来ない。




