第十九集「過去」
「女性としてのたしなみは?」
「女の姿でいるからには多少は知っておいたほうがいいと歌や舞も、その時に母から」
「では歌や楽器も多少はできるのだな」
「どれも触り程度です。巧くはありません」
「本来やるべきことではないのだから、巧くなりようがない。――なるほどな、玲華はこうなることを見越していたんだな」
今、母さんがここに居たら「ほら見て」と緻密な刺繍を完成させたときの子供のような笑顔を見せたことだろう。よかったね――つい、そう思ってしまった。
「それにしても女性の方が得をするということは、あるものなのだろうか。確かに男相手よりは、何かと気を遣われるものだが」
「物を売る時は、より売れましたよ」
「まあおまえは見目がいいしな、私に似て」
この人――思わず笑ってしまい、慌てて表情を引き締める瑛明の目の前で、中相が胸前で組んでいた腕を解いた。
「おまえも、あの日から険の取れた顔をしている。他の誰でもなく王上に、お救いいただいたところがあるのだろう。それであれば、この話は悪いことではない、お互いに」
中相は小さく笑うと、
「王上は喪が明けられたばかりだし、おまえはまだ喪中だ。王上がおっしゃる『産まれてから宮中にいるはずだった時を今取り戻す』という、あくまで身内として宮中で喪を過ごさせるという無茶な理屈は、おまえの特殊な事情もくんで渋々認めるにしても、后どうこうという話になれば黙っていない連中は大勢いる。それは王上も、お分かりのはず」
「そう、なんですか」瑛明の言葉に、中相は一つ頷き、
「おまえの喪明けまで半年余り。それまでに次の手を考えればよい。おまえが王上と一番近い血で、もっとも年が近い身内であることは、紛うことなき事実だしな。今は、おまえが宮中に上がるのが一番よい。おまえにとっても、王上にとっても」
「崔家にとっても、ですね」
瑛明の言葉に、中相は笑って頷いた。正直な人だ、こういうの嫌いじゃない。
だけど。
それはつまり、一国の主を騙すということだよな? どう考えたって騙し切れる話じゃないのに。半年経ったら俺が女になるわけじゃないんだぞ。
それとも、これまで何もかもをうまくやってきたから、今回も乗り切れるという目算があるのか。それくらいじゃないと、中相なんて地位に留まっていられないか。
なら、大丈夫なのかも。
きっと、そうなんだろう。
そうに違いない。なるようになる!
「よいな」
念押しされ、頷いたら、あの美しい面立ちと柔らかい声が思い出されてくる。胸に湧きたつのは、不安より期待であることは、疑いようがなかった。だが。
「ただ分かっているだろうが」
おもむろに立ち上った中相を追うように目を上げると、見下ろす目からは今までの柔らかさが消えていた。おのずと身が固くなる。
「王上とは余り近しくなり過ぎないことだ」
『浮かれ過ぎだ』とたしなめられたようで、にわかに顔が熱くなり、頷く態で慌てて目を伏せた。
足音が遠ざかっていくのが聞こえる。きまり悪さを覚えつつ、自分だけ翻弄されているのが悔しい。突如湧きあがった熱に駆り立てられるように、気づいたら瑛明は立ち上がっていた。
「お伺いしたいことがございます」
部屋を出ようと扉に手をかけた中相の背に、その勢いのまま声をかけていた。肩越し振り返った父を、まっすぐに見据え、
「母は、最期に私に言いました。『志按さまには許婚がいたのだけれど、結局結ばれず、自分と結婚することになったのだ』と。それは、本当のことなのでしょうか?」
向けられる目が僅かに細められ、その奥に見える不穏な光に、体が強張る。でももう後には引けない――それを示すように、瑛明は自分の目に力を込めた。
「本当だ」中相は扉から手を離し、瑛明にゆっくりと向き直った。
「確かに、おまえの母と結婚する前、私には許婚がいた。だが彼女は先王に見初められて、王宮に入り、王后となった。替わりに私には先王の妹が与えられた。おかげで、たかだか小役人の、複数いる庶子の一人でしかなかったこの私が、正腹の長子を差し置いて嫡子となったばかりか、中相という地位まで手にすることができた。だから崔家は単なる成り上がりで、守るほどの名家ではないのだ」
「替わり」って。
「与えられた」って。
顔に現れそうになる感情を、瑛明は奥歯を噛み締めることで耐えた。
だけど許嫁が王后だったなんて―― それはつまり、今は亡き王后は王上の実の母親で、母さんの義理の姉で、恋敵ってこと? 「あの女」って王后のこと? じゃ中相が今の地位にいるのは、皇女だった母さんの存在だけでなく。
「だから代々王の補佐をしてきた左相家を筆頭に、高貴な方々は、卑しい血筋でありながら、許婚を差し出す形で出世した私をお気に召さない。恐らく、おまえは王宮で色々辛い目に遭うこともあるだろう。だが卑屈になる必要は全く無い。血筋がなんだろうと、今、最も王の信頼篤く、権勢があるのはこの私。おまえには私がついている。過去の話は気にしないことだ。既に終わっている」
そう言うと、瑛明の言葉も待たず中相は部屋を出て行った。




