第十四集「血縁」
開け放った窓から吹き込む風が、温い。
院子では春の花が散り、緑が濃くなっている。窓外から吹き込む風からも、濃密な青い香りがした。水面を照らす日差しは強く、池はまるで大きな一枚の鏡のように眩しい。
「遅いね、中相」
卓上で瑛明は書を広げながら、傍らに立つ依軒に声を掛けた。
「三月ぶりの参内ですから、王がお引き止めになられているのかもしれません。大爺は王のお気に入りですから。太太の喪にきちんと服することを許されたのが、その証です」
外界では君・父母の逝去時は三年(実質は二年)を始めとして、親等別に服喪期間が設けられていたものの、秦の大乱を逃れた民が作った桃源郷では、さほど儒教の教えは浸透していないらしい。特に要職にあり、父母以外の喪に服する者以外は、王からの召寄に応じ、参内することのが常なのだという。
「大爺は大層な読書好きで博識でいらっしゃいますから、お話がおもしろいのでございますよ。高官ながら偉ぶらず、腰も低くいらっしゃるので、人望が篤いお方です」
だったらもっと色んな本を借りとけばよかったな。与えられた女子供向けの読み物をおとなしく読んでいたけど、こっちの歴史とか風俗とか、きっと面白かっただろうに。
中相の日常が戻ったところでここを去ると決めていた。
明日にはここともお別れ――三月余りこちらに居ただけなのに、外界のことが遥か昔のことのように思える。
昔は今日の寝床や食物に頭を悩ませることが何度かあった。必死に頭を巡らせながらふと、明日のことさえ考えられない自分は、ただの動物でしかないと情けなく、惨めだった。もう何もかも投げ捨てたいと思って、でもそんな度胸もなくて、本当に自分は無様だと、また泣きたくなった。
だけど今こうして、寝食以外を考えられる日々を送り――ただ寝食だけを考えていた昔を懐かしく思い出すようになった。必死に生きていた自分をいじらしくさえ思う。そんな風に思えたことは、いままでなかった。
だから、たとえ寝食しか考えられない日々に戻ったとしても、それに終わりが来ないなんてもう考えないくていい。俺ならきっと何とかできる――そう思えたから、瑛明の心は定まった。困難な道を選ぶことができたのだ。
だが。
「明日は共に出かけるぞ」
茜色の空に夜が忍び寄ってきた頃合に、先触れもなく一人でやってきた中相は、いきなりそんなことを言ってきた。
どうやら忘れておく、というのは本当だったらしい。だがここでひるむ瑛明ではない。
「申し訳ございませんが、以前お話ししました通り、明日にはここを発つつもりです」
「明日か。それは無理な相談だな」
中相は鼻先で笑ってみせた。その態度に軽い苛立ちを覚えながら、とりあえず瑛明は気を静めて問うた。「どういうことでしょうか」
「王がおまえに会いたいと仰せだ」
「王が?」――俺に?
ただ呆然とする瑛明に、中相は重ねて、
「王が会いたいとおっしゃれば、参内するのが我ら臣民の勤め。おまえがそれを拒んだり勝手に姿を消したりなどしては、この家に累が及ぶ。少なくとも明日の謁見が済むまで、おまえをここから出すわけにはいかない」
まっすぐ向けられる目には、声と同じく否応を許さない、強さがあった。圧倒されながらも、瑛明は思わずにはいられなかった。
「ここは――桃源郷ではないのですか?」
人の区別ない世のはずなのに……。
漏れた瑛明の言葉に、中相は口元を歪め、
「それは遥か昔にあった夢想の地だ。時は経ち、我々はここで生きて来た。同じく人が生きる外界が変わるのに、ここだけがそのまま、ということはない。残念なことにな」
まさに正論で、瑛明は唇を噛むしかない。
「そして――これまでおまえに差し入れた衣裳や本の多くは、実は王からだ」
「え?」
「王はおまえと玲華にすぐに会いたいとおっしゃっていたが、おまえたちが落ち着くまではと時を待っておられたのだ。せめてもの気持ちにと、様々なものを私に託された」
ここにきて用意された衣装を思い出す。どれも豪華かつ繊細な刺繍が施され、肌触りのよい上質なものばかり。本も相当数あった。中相ってどれだけ有金なんだと思ってたけど、まさか王からの賜りものだったなんて。
「それに、私が玲華の喪にきちんと服することを許されたのも、ひとえに王がおまえの身を案じてのことだ。さぞ心細いだろうから、傍にいてやれと。これだけのご厚意を受けながら、礼も申し上げず姿を消すのか。これは身分の別の話ではない、人としての話だ」
ただただ唇を噛むしかない瑛明に向けられる中相の眼差しが、ふと緩んだ。
「おまえが気後れするのも分かる。だが王は大変聡明で、情のある方でいらっしゃる。ご自身の半年後に生まれたおまえのことを、ずっと気にかけておられたのだから」
胸がにわかに騒がしい。
驚き、戸惑い、不安、だけどなにより、沸々と湧き上がってくるのは、ごまかしようのない、期待感。
会ってみたい――俺の存在を気にかけ、あまつさえ会いたいという、血を分けたに王に。
「分かりました。お言葉に従います」
瑛明はそう言って、自分でも戸惑うほどに昂る胸を鎮めるように、深々と頭を下げた。




