第十三集「帰る場所」
ことあるごとに考えていた。
――もし、母さんがいなくなったら。
それは恐ろしい、だが必ず訪れる確かな現実だった。そうなれば、戸籍を持たない、仲間さえいない自分を待ち受けるのは、奴隷か盗賊か、もしくは……。
だとしても、あの世間知らずの小姐を一人遺すよりはずっとましだと思った。もし、そんなことになるなら、その前に俺が――。
初めて参列した葬礼は、それは盛大なものだった。豪奢な葬列品が並び、精緻な彫刻が施された棺に横たえられた母は、これまでで一番美しい装いをされ、参列した大勢が上げた哭礼の悲痛な声は、天を震わせるほど。
思い出すたび、外界とのあまりの違いに、現実かどうかが分からなくなる。
母さんはいなくなった。
だけど俺は奴隷にも盗賊にもならず、大豪邸で、大勢の人と物に囲まれ、自分のことさえ誰かがやってくれる満たされた毎日。
だから、この悲しみに没頭できるはずなのに――涙一つ出て来やしない。
昼下がり。
瑛明は自室の窓辺に寄ってぼんやり院子を見ていた。相変わらず多彩な風景だが、もう桃は、とうに散っている。
別れは、余りに突然だった。
慌ただしく葬儀の準備が進み、人が集まり、母さんは土に還った。馴染みのある品はあれど、その持ち主の姿はどこにもなく、もう本当に母さんはいないんだと、日ごと実感する。
悲しみも後悔も感謝も、色々なものがないまぜになって波立つこの気持ち全てに、応じてくれる相手がいない――目が覚めるたび、姿が見えない日々を重ねてやっと、本当にもう居ないのだということを少しずつ実感していった。今はただただ、姿なき相手に語りかけ続けている。
生きていた時よりずっと、多くの言葉を。
これでよかったんだよね、母さん。
故郷に帰ってくることができて、愛する志按さまに看取られて。それこそが母さんの望みだったんだから。
だけど――いつもふいに、突き上げてくる。
ここに来なければ、母さんは死ななかったんじゃないか。俺があの道を見つけなかったら――ここに戻ってさえ来なければ。
ここに帰りたいという希望を持ち続けて、志按さまを想いながら趙とでも再婚してたら。あいつジイさんだったけどいいヤツだったし、何より、本当に母さんを愛していた。
女は愛されてこそ幸せというじゃないか。あいつとなら母さんも、穏やかに生きていけたんじゃないのか。
号泣して自分に取りすがった母の、腕に食い込んだ爪の痛みが、いまなお蘇る。
叩扉の音。
ゆっくり振り返る。開いた扉から、少しばかりやつれた依軒が姿を現した。
「瑛明さま、大爺さまがお越しです」
葬儀以来である。依軒に従い瑛明が居間に出ると、そこには同じく粗い白麻の喪服をまとった中相が居た。瑛明は軽く会釈をして、促されて卓子を挟んだ対面に腰を掛ける。
卓子は螺鈿の黒漆のものではなく、粗末な木のものに代えられている。棚に並んだ美術品も下げられ、窓外の景色だけが鮮やかだ。
「今、何を考えてる?」
今? その言葉を脳裏で繰り返す。
混沌としていて、自分でもよく分からない。
なのに何もかも見透かされてる――そんな畏怖さえ感じて、黙り込んでいると、
「おまえ――ここを出る気でいるな?」
中相の目が、まっすぐに自分を見ている。
小さく息をのんだ。混乱した日々の中で、ただそれだけは、唯一決めていたことだった。
思えば、まともに二人で対面したのは、ここに来た日以来だ。
そう思ったら、知らず口元が綻んだ。「はい」言葉は素直に滑り出た。
「だがおまえの身内は、もう私だけだ」
思いもよらない言葉に驚いて、今度ははっきりと笑みが浮かんだ。
「恐れながら――もうずっと父はいないものだと思って生きて参りました。またその日々に戻るだけです」
「ここはおまえの家ではないと?」
「ここは母の故郷です。母を丁重にお見送りいただいたこと、感謝しています。やっとこの地に母を帰すことができて、本当によかったです。――お会いできて嬉しく思いました。忌が明けたら、私は密かにここを出ます」
面倒になりそうだったから、何も言わずにここを出るつもりでいたのに、つい言ってしまった。
嬉しかったからかもしれない。
おもむろに中相が席を立った。そのまま踵を返したところで、足下がふらついた。
食事は朝夕二回の雑穀のお粥のみ。
確実に二度も出てくるなんて自分にはありがたいが、あんな豪華な食事と間食に慣れた身体にはきついことだろう。
粗衣粗食に耐え、母をきちんと見送って下さってるのだ、この人は。
母さんよかったね。
気持ちは他の人にあったのかもしれないけど、母さんのこともちゃんと想ってくれているよ――瑛明もまた立ち上がり、去りゆく後姿に深々と頭を下げた。
「今の話、母を亡くしてまだ気持ちが落ち着かぬゆえの言葉と思っておく」
思わず顔を上げると、中相が扉に手をかけたまま、こちらをまっすぐに見ている。
「決してそういうわけでは」
「もう一度よく考えるといい。忌明けまで、まだ日がある」
そう言うと、瑛明の言葉を待たず、中相は部屋を出て行った。




