第十二集「別離」
「私がどうしてここを出たのか、あなたにはまだ話していませんでしたね」
息子の言葉を留めた母は、いきなりそんなことを言った。
今までどれだけ訊いても、何も教えてくれなかったのに――驚きながらも、瑛明は促されるままに牀台に座った。
「志按さまは」
母がその名を呼んだことに、心奥がひやりとする。そっと母の様子を伺うが、なぜか優しく、そして諦めを滲ませ笑っていた。
「兄のご学友でした。とても優秀な方で、本来であれば高位の子弟でなければ入学を許されない国学に、特別に許され入学されたのです。数年に一度しかない出来事は、ちょっとした話題になりました。私は、話題の方を見ようと兄を国学に迎えに行き、一目お姿を見た時からずっと、想いを寄せていました。ですが志按さまには、すでに将来を誓い合った方がいらっしゃって――」
そこで母はふと目を伏せる。笑みを浮かべていた口元が、僅かに歪んだ気がした。
「ですが故あって、私が志按さまの元に参りました。『替わり』だと分かっていても、皇女たる私を踏み台にしてのし上がるつもりだと周囲に聞かされても、志按さまと添える喜びの前には、全て些末なことでしかなかった。のぼせ上がっていた私は、少々浅はかだったのです。一緒になりさえすれば、志按さまも心を変えてくださると。でもあの方は――周りの誰もが羨む優しい夫を演じながら、私を受け入れることはなかった。そんな時でした、私が身篭ったのは」
呼吸することすら忘れて言葉を繋ぐ母の表情が、少しずつ険しくなっていく。あまつさえ顔色も青ざめてきたようだ。
止めた方がいい、そんな考えが脳裏をかすめる。だけど結局、瑛明にはそれができなかった。もう少しだけ、と。
もう少しなら、と。
「私は思いました。もし生まれてくる子が男児なら、志按さまは跡継ぎを手にいれることになる。そうなれば私はもう用無しに違いないと。志按さまに捨てられないためには女児を産むしかない――その胸のうちを、幼少からずっと共に過ごした依軒にだけは明かしました。だからなのかもしれません、取り上げられたあなたを医師が女児と見誤り、それを信じた依軒は、嬉し涙を流す姿を隠そうとしたのか部屋を出ていきました」
母の紡ぐ言葉は、静かに瑛明の胸を抉った。
『だから』? そんな言葉が頭を巡る。
「私は彼女が部屋を出た後、子供が男児だったと知らされました。これで私は志按さまに捨てられてしまう。気が狂いそうでした。見誤ったことを盾に、医師にはあなたが男児であることを隠し通すように言いましたが、そんな嘘をつきとおせるわけがないことは私にだって分かっていました。知られたら捨てられる、だけど隠し切れない――そんなことばかりを考えていて、きっと私は、少しおかしかったんだと思います。ある日、気づいたら私はあなたを抱えてここを抜け出し、あの洞窟内にいました。暗い洞内を歩くうち、あなたが泣き出して――、その激しい声に我に返った私が来た道を戻ったときには、あの岩戸は固く閉められていました。そうなると洞窟の中からは決して開けられません。どれだけ声を上げても誰も気づいてはくれません。私は岩戸が開かれる日を待ちながら、あなたと外界で暮らすしかありませんでした」
そこまで言うと母は瑛明の手を取る。
ひやりとした手に驚き、いつしか伏せていた目を上げると、母は静かに泣いていた。
「私の浅薄さが、おまえに辛い思いを強いてしまいました。どうか、愚かな母を許して」
目頭が熱い。
言葉が出ない。
どう頑張っても嘆いても、自分にはどうすることもできないのだ。共に泣いても、どんな言葉を掛けても、母の気持ちを癒やすことはできない。望まない男児だった自分のために母はずっと、心身を削ってきたのだ。
昔も、そして今も、母が見ているのは崔志按ただ一人なのだ――。
母はしばし涙にくれ、やがて思いつめたように握った瑛明の手を見据えながら、
「おまえはやはり、兄上が望んだとおり――でも、この期に及んでまで、あの女に!」
静かだった声が突如大きくなった。だけでなく握られた手に爪が立てられ、痛い。
瑛明は、先の母の取り乱しようを思い出し、
「母さん、落ち着いて」
母の手を握る左手に力を込め、右手で、震える小さな背をさする。「あの女」その言葉が、耳の奥で響く。だけどもう、これ以上は。
母は、瑛明の手を額まで持っていき固く握っていたが、ふとその手を離した。そして、瑛明が傍らに置いた件の箱を指さし、「それをあなたに。もう私には無用ですから」
「でもこれは」
「少し疲れました。依軒に茶を用意させて」
母はそう言うと、戸惑う瑛明に背を向けて、その身を横たえた。
横顔が少し蒼褪めている。これ以上、興奮させてはよくない。そう思った瑛明は、箱を持って部屋を出た。依軒に茶を言いつけてから、自室に入る。
院子に人気がないことを確認してから、薄青の帳の中に入る。牀台に座り、箱を開けた。煌びやかな装飾品が並ぶ上段を外すと、禍々しい白い布が現れる。爪先で端をつまみ上げてちらりと中を覗き、慌ただしく箱を閉じた。
おい趙、何てものを母さんに渡してくれたんだ。身が心配だったらこんなものよこさず、護衛でもつけてくれりゃよかったのに!
瑛明は牀台を降りると、箱を牀台脇の抽斗の一番下、それも奥に突っ込んで、色々なものをかぶせてから抽斗を閉めた。
そうして窓辺へと寄る。やはり人気はない。瑛明は大きく息を吐きながら、院子に目を向ける。紅色に染まる一角で、ハラハラと花片が舞っているのが見えた。
「そうか、もう桃も終わりなんだ……」
空の青、竹の緑に映えて鮮やかだ。満開の時は勿論だが、この散り際、最後とばかりに色を増す桃花の美しさは、怖いくらいだ。
何で母さんは――そう思った時だった。平穏の時を切り裂く悲鳴が上がったのは。
依軒の声だと分かったときにはもう、瑛明は部屋を飛び出していた。駆けつけた母の部屋の扉を引くと、転がるように依軒が倒れこんできた。「おっ、太太が、太太が――」
肩越しに見れば、牀台で母がぐったりと目を閉じていた。これまで寝付く母の姿は数え切れないほど見てきた。でもそのどれとも、明らかに違う。
瑛明は泣き縋る依軒を振りほどき、駆け出していた。離れを飛び出し、院子を横切る。
見事に晴天、草花は美しく、走る風に撫でられる水面から冷涼な風が瑛明を包む。何もかもが余りにのどかで眩しくて、泣けてくる。
「父上!」
瑛明の声に、高床式の一室から複数の視線が下りて来た。
戸を全て外し、御簾を上げて、院子の風景を楽しみながら茶を楽しむ一家団欒がそこにあった。一幅の絵のようだった。
小さな女の子は驚いた顔をし、少年は瑛明に鋭い視線を投げ、その母は露骨に不快な表情を見せている。
彼らを背に、中相はゆっくりと立ち上がって手摺に寄り、鷹揚に声を投げてきた。
「どうした」
「母上が――」
その一言で、中相の表情が変わった。すぐさま、階をかけ下りてくる。気づけば瑛明は、彼に抱えられながら来た道を戻っていた。
「玲華」
声とともに手を握られ、母は目を覚ました。
「ああ、志按さま」
苦しい息の下で母は笑った。少女のように。
「瑛明を……」
それが母の最期の言葉だった。




