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きみは最果ての光  作者: 天水しあ
第二章『内界』
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第十一集「浮舟」

「母上!」

 部屋に駆け込むと、母が牀台に突っ伏して激しく泣き、その傍らに立つ中相が、僅かばかり眉間を寄せ、その姿を見下ろしていた。

「結局、あなたはまだ忘れてないんだわ!」

 顔を歪めて泣き、金切り声で叫ぶ――その、見たこともない見苦しい姿に、瑛明は驚きの余りしばし呆然と立ち尽くしてしまう。


「ああ瑛明」

 息子の存在に気づいた母が、涙で顔を濡らした顔を上げ、牀台から落ちそうなほどに手を伸ばしてきたので慌てて駆け寄ると、掴みかかるようにしがみついてきて、いっそう激しく泣いた。「ここにいるよ」、「大丈夫だよ」戸惑いながらも瑛明は優しく無力な言葉を重ねて、必死に薄い背をさすり続けた。


 やがて震える肩が静まってきて瑛明が少し安堵したとき、母がか細い声を震わせ、「もう結構です。もうお会いしたくありません。二度と姿をお見せにならないで」

「ちょっと母さん、何言って――」

 心ここにあらずかと思っていたのに、ちらっと眼がこちらを向いた。外界にいたときも戻ってからも、「母さん」と呼びかけた時はきつく叱られた。「母上」と呼びなさいと。以来、特に中相の前では気を付けていたけれど、つい声に出てしまった。

 だけど母は、一瞬目を向けてきただけで、それ以上咎めることはなかった。

 瑛明は思わず腕の中で震える母を見下ろして、それから縋るように肩越し振り返る。そこには腕を組み、冷ややかな目で、この騒動を眺めている中相の姿があった


 ――まるで、他人事のように。


 胸の奥が凍りつく。

 頭では分かっていたはずだった。自分たちの微妙な立場を。だけど今、竿のない舟で荒れ狂う大河に押し出されたような途方もない不安に、全身の力が抜けそうになった。


 堪えろ……必死に自分に言い聞かせてどうにか踏ん張り、瑛明ははっきりと告げた。「申し訳ございませんが、今日はどうぞ、お引き取りを」

 「お引き取り」どころが、出て行けと言われる立場だと知りながら、言わないではいられなかった。痛いくらいに自分に縋りつく母を、どうにか慰め、護りたかった。


「分かった」

 中相はただ静かに頷き、踵を返した。その表情からも挙措からも、動揺や困惑、いや、なんの感情も読み取れなかった。


 ――どうでもいい。


 そう示されている気がして、瑛明は母を抱く腕にぐっと力を込めた。



 中相が去ると、母は涙をすぐに収め、瑛明から離れた。それはあっさりと。

 気忙しく見守る瑛明の目の前で、依軒が用意したお茶を一口飲み、湯で顔を洗い、着替えたのち、「気分が優れないので休みます」とだけ言い、牀台に身を横たえ、かけぶとんを被った。

 混乱して呆然と佇む瑛明だったが、「ここはお任せを」と依軒に目で促され、おとなしくその言葉に従った。


 それから数日が経った。

 瑛明は連日、居間で母が来るのを待ったが、母が自室から出てくることはなかった。何度か部屋に様子を見に行く依軒が言うには、多少はやつれたが、食事も薬もとっているので大丈夫だとのことで、少しばかり安心した。


 あれ以来、本当に中相は来なくなった。


 これまで通り食事や衣装はもちろん、母の体調を慮っての薬が運ばれてくるので、存在を忘れられているわけではないらしいが。

 やっと本来の場所に帰ってきたはずなのに。この不安、外界に居たときと変わらないのは何故なんだ。 

 いや、あっちに居たときには「いつか帰る場所がある」という希望があった。


 だけど今、俺たちにそんなところは、もうどこにも……。


 その日の夕刻、瑛明は母に呼ばれた。

 部屋の前で大きく息を吸う。「よし」小さく呟いてから、叩扉した。「母さん入るよ」

 横になっているとばかり思っていたのに、薄い紅の帳を上げて、牀台で体を起こし窓外を見ていた母は、瑛明を見てにこりと笑う。


 どきりとした。


 夜着のままで髪も結い上げず、化粧もしていないというのに、まるで内側から発光する玉のような美しさ。それが人知を超えたもののように思えて――ゾッとした。


「瑛明、それを」


 母が指し示したのは、先日、中相が煌びやかな装飾品を詰めて携えた、黒漆に螺鈿細工が施された美しい箱である。

 言われるまま、瑛明が牀台脇の高卓に置かれたそれを手に取った。両手に載るくらいの大きさながら、ずしりとした重みがある。


「開けてごらんなさい」

 瑛明は蓋に手をかける。

 鍵はかかっていなかった。蓋を持ち上げると、中には耳輪や指輪、簪といった煌びやかかつ多彩な装飾品が整然と並べられている。


 でも、見た目より、底が浅い気がする。


 目の高さに持ち上げてみて、箱をよくよく見てみる。軽く底を叩き、二重底だと知った。

 装飾品の入っている内箱と、同色の外箱との僅かな隙間に爪をかけ、持ち上げてみると、中から白い布に包まれた「何か」が出てきた。布は少し黄ばんでいて、ここの生活には不釣合いな粗末な布だった。


 母さんはあの家からは何も持たず出てきたと思ってたのに。軽い驚きを覚えながらその包みを解いた瑛明は、たちまち顔色を失った。声が震える。


「母さんこれ……。一体何だよ」


「趙殿が下さったのです。いざという時のために、と」

 息子の尖る声を、母はさらりと受け流した。そしてまっすぐに、彼を見つめる。その視線の強さに射すくめられたように、瑛明は言うべき次の言葉を口にできなくなった。


 『いざ』って、どういう時のことだよ、と。


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