第十集「懸念」
「――参りました」
深々と頭を下げると、「きゃあ」と嬉しそうな声。傍らの母が「さすがは志按さま」と上ずった声を上げる。
目の先で煌めく水面の眩しさに、瑛明は目を細めてそっとため息をついた。
晴れた日は院子の亭台で、雨の日は離れで、親子三人で食事を共にした後は、中相と瑛明で碁を打つのが恒例となっていた。
母は傍らで身を乗り出し、固く固く両手を握り合わせ、固唾を呑んで対局を見守るのである。そして今日も、瑛明が負けたのだ。
――息子が負けて、そこまであからさまに喜ぶってどうなんだよ母親として! まあいいけど。母さんが嬉しいんなら、まあそれで。
「いや、なかなかの追い込みだったぞ。今日こそは負けやもしれぬと思った」
正面の中相は口元に笑みを浮かべてそう声をかけてきたが、昨日も一昨日も同じことを言ってたな。まあいいんだけど。
「さあ、お茶のご用意ができました。こちら片付けさせていただきますね」
そう背後から声をかけてきたのは依軒。手際よく卓上を片付けていく。いつものように。
中相は多忙の中、一日何度か離れを訪れ、少なくとも一度は食卓を共にする。
母さんは中相が現れるまではそわそわしながら鏡を覗き込み、何度も依軒に髪を結い直させたり、紅をさし直したりしている。まだまだ牀台で過ごす時間が長いけれど、日に日に起きている時間が延びていっている。
牀台は柔らかで寝心地はよく、部屋も食事も衣装も、すべては豪華で充分過ぎるほど。
なにより、ずっと帰りたかった場所という安心感――これ以上は望めない環境で、母さんが普通に起き上がれるようになるのも、すぐだろう。肌が、目に見えて明るくなってる。
息子の俺が言うのもなんだが、戻ってからの母さんの美しさには陰が一切なく、その眩しさには、そら恐ろしさを感じるくらいだ。
「玲華、寒くはないか?」
「ええ、少しも」
美しい人形に血が通ったといえばいいのか――潤んだ大きな目で中相を見つめる姿は、まさに恋する娘。それ以外は眼中にない。
おかげで俺は、いまだにどうしたらいいか分からないまま女の格好だ。
だけど。
「久しぶりのご夫婦再会でございますもの。仲睦まじいことは喜ばしいことです」
依軒がそれは嬉しそうに言うけれど……。
確かに中相は、母さんがとりわけ好む菓子やら装飾品やら、様々な珍しいを持って日に何度も姿を見せる。だが決して泊まることはない。そのうえ自分や依軒を必ず同席させた上で母さんに相対する。
常ににこやかで、まったく隙のない――『おもてなし』。
あれだけ母さんに堕ちない男は居ないものかと思っていたのに、ようやく見つけたと思ったらそれが、母さんがずっと思い続けた夫で、俺の父親とは。もうため息しか出ない。
だけど仕方ない。余りに離れていた年月が長すぎた。この家の人間から見たら、俺たち母子はよそ者であり、この離れをあてがわれるのは当然の成り行きともいえる。
まあそのうち母さんも事実を受け止めてくれるだろう。
心配した第二夫人の存在も、母さんは「一国の相として当然のこと」と受け入れてたし。外界ではままならないことばかりだったから、昔はともかく、今の母さんは妥協を知っている。
時がたてば全てに折り合いがつき、しかるべき道が開かれるはず――そう思ってた。
「志按さまと二人で話がしたいの」
ある日、母が思いつめた表情と声で言ってきたとき、瑛明の胸は妙にざわついた。
いいんだろうか二人っきりにして――。
思いながらも結局、瑛明は離れの傍らにある物置に依軒と二人で潜むことになった。
「いつまでこうしてればいいんだと思う?」
「とりあえず今しばらくは……」
物置とはいえ瑛明のかつての住まいの倍はあり、二人でも十分な広さだ。ご丁寧に椅子と卓子まで運び込まれ、瑛明と依軒は、それぞれ本と繕い物を手に、窓際に座った。
天気のいい日の常として開け放たれた窓からは、十分な明るさが手元を照らしてくれている。なのに開いた本の文字は目を滑っていくだけで、少しも頭に入らない。対して依軒はせっせと針を動かしている。
俺って母さんのことになると、ちょっと過保護になってしまうのかも――そう思い、身を入れて本を読もうと座り直したとき―― 大きな音がした。
人声、悲鳴――、いや、泣き叫ぶ声!
声の主を悟った瑛明は、本を投げ捨て、物置を飛び出した。




