第五十二話:永遠の揺籃
神々しいまでに光り輝いていた白は、既に跡形もなく消え去り、残されたのは幽霊のように透けて向こう側がはっきりと見える馬の体だけ。ホタルなんて揶揄した面影はない。気品すら感じさせた角は根元から折れてしまっていた。
「どうしたんだよ! メルヘル!」
駆け寄った俺の心臓は、さっきまでのものとは違う動悸でうるさいくらいに跳ね回っていた。
「コーヨー…… 来てくれたの」
ほっと安心するように鼻から息を漏らしたメルヘルは、あまりに儚い。手を伸ばすのを躊躇っていると、メルヘルのほうから俺の頭に鼻を擦りつけた。まだ感じられる。母さんが撫でるような優しい感触……
「時間がないと言ったでしょう?」
優しく諭すような……
「時間がないって……。メルヘルが消えてしまうってこと?」
何も考えずに口にした言葉は、俺の胸をこそ深くえぐった。メルヘルが消えてしまう。どうして? 何も悪いことをしていない。ただ静かにこの場所で暮らしていただけ。俺を助けたから?
「いいのよ、コーヨー。私の最後の望みなんだから」
「……いいわけないよ! 俺のせいで君が死んでしまうなんて」
「いいの。私は貴方に何もしてあげられずに死んでしまった。だから……」
今度こそ、と耳元で囁くような声。温かい吐息。穏やかな口調。優しい感触。
「やっぱり……母さんなの?」
「……そうよ」
「母さん……どうして今まで黙っていたの?」
責めるような口調になってしまって、俺は自分の頬を思いっきり殴りつけたい衝動に駆られた。でも……言ってくれたら、もっと色々話が出来た。色々してあげれた。
「どうして!」
「いいのよ。コーヨー、いいの。死への恐怖でおかしくなりそうな時、貴方は辛いだろうに私の手を握っていてくれた。約束を果たしてくれた。それだけでもう十分なのよ」
「そんなんじゃ足りないよ! 母さんがしてくれた半分も返せてない!!」
「……本当は明かすつもりもなかったの。だけど……また悲しませてしまう。私がいなくなる辛さを二度も味あわせてしまう。でもね……我慢できなかった。私は人の親だから。貴方の親だから」
だからそれで、おあいこ。そう祈るように呟いた言葉は、優しく耳朶を打った。いつの間にか俺の目からは涙が流れていた。母さんに逢えて嬉しくて、たまらなく嬉しいのに。心があったかくて……切なくて。
「私が神様にお願いした最後のわがままは、私にどんな傷でも、病気でも癒す力を与えてくれることだった」
そう言って母さんは折れた角がある頭を、俺の前に差し出した。滲む視界ではよく見えなかった。
「死ぬことは、とても辛いことだから。貴方だけじゃなく、皆も悲しませる」
母さんが死んだ直後のことを思い出していた。辛いこと。あんな思いを皆にも、父さんにもさせようとしていた自分……。しばらくすすり泣いていた俺の頭を、優しく、優しく母さんが鼻でさすっていた。
「幸治さんは…… 幸治さんは元気?」
「元気だよ。俺のために一生懸命働いてくれてる」
涙を袖で拭って、なるだけ明るい声を出そうとしたけど、拭った端から涙が零れておかしな声になった。
「幸治さんにも苦労をかけてしまった。私は罪深いのね」
母さんの体が明滅を始めた。罪深いのは俺だ。メイメイの気持ちに素直に答えていたらあんなことにはならなかった。母さんがいなくなることもなかった。
「……母さん!」
メルヘルの体はもうその白を失い、透明が支配し始める。それが完全に透明になったとき、母さんは永遠に失われてしまうんだ。それが本能的に分かったから、俺は母さんの体にしがみつくように掴まった。まだ行かないでよ。もっとずっと……