第五十一話:生命
父さんの車で森まで向かった。月の光に鈍く照らされた森の概観は、どことなく俺を落ち着かせる。
「……本当に一人で行く気なのか?」
車内で父さんにはそう言っていた。父さんの声音からも諦めているような節が感じられた。父さんは俺が、言い出したら聞かないことを知っている。首肯すると、黙って懐中電灯をダッシュボードから取り出した。
「持っていけ」
「……ありがとう」
懐中電灯を受け取ると、父さんは前を向いたきり、ここで待っていると言った。
「……ありがとう」
いたたまれなくなった俺は、車のドアを閉めて、幽霊森へと足早に向かった。
懐中電灯と月の光を頼りに進む森は、いつもと同じ静けさで、懐かしくもあり、厳かでもあった。でも怖くはない。ここにはメルヘルしかいない。それを知っている。
広葉樹の葉が夜風にささめきあう獣道を、初めて来たときのようにキョロキョロ見回しながら進む。名も知らぬ黒い鳥が枝につかまって休んでいるのが見えた。生命が凝縮されたような空間。ここに生者として再び足を踏み入れることが出来たのはメルヘルのおかげだ。母さんのおかげだ。そんなことを思っていると、自然とあの白い馬の優しい微笑が、優しいお尻が、優しいタテガミが脳裏に浮かんで離れなくなった。
「メルヘル……どこだい?」
君のおかげでここまで来れたよ。君がいたから俺は生きているよ。
以前俺が拳を叩きつけたケヤキは、幹の皮は完全に再生されていて、青々とした葉を茂らせていた。これから迎える夏に向けて、その生命を思う存分謳歌している。もうあと少しだ。
体が軽い。事故なんて嘘のようだ。
きっとメルヘルが完全に俺の体を治してくれたんだ。向こう見ずに散らそうとした命を繋ぎとめてくれた。メルヘルの寝床が近づくにつれて、俺は自分の足がもっと早く動かないものかと、やきもきし出した。早くメルヘルに会いたい。会って礼が言いたい。君は母さんなんだろう? これからも姿は変われど俺を優しく見守ってくれるんだろう? そうなんだろう?
俺の足は病み上がりの自重も振り切って、既にあらん限りの高速で回転していた。
まだか。まだなのか。どうしてこの森はこんなに広い?
一気に駆け抜けた森を後ろに、遂に開けた場所に辿り着いた。
息を整える間もなく、長らく固定されていた、凝り固まった首を三百六十度振り回した。いつもの場所。いつも来る度に新しい発見があって、新しい友達と共に、泣いたり怒ったり笑ったりした場所。
メルヘルの住まい。奥にはどこからどうやって取ってきたのか見当もつかない干草を敷き詰めた寝床がある。一緒になって寝っころがりもした。
いた。いつもと変わらぬ場所にメルヘルはいた。
変わり果てた姿で……