第四十四話:湯原早紀~painful disillusion~
「本当に大切なら覚えている筈なんだよ…」
湯原が眠る前に言った言葉。今はリビングで俺が敷いた布団の中で彼女は眠っている筈だ。眠っていて欲しい。せめてここにいる間は辛いことを少し忘れて。
湯原の気持ちがわかるような気がした。
自分の母親への気持ちに自信を持てないでいるのだ。本当に母親の顔を思い出せないことが辛いのか。
自分が薄情な人間なんじゃないか。父親と同じように、母親が出て行ったことに何も思うところがなかったから、大切じゃなかったから、思い出せない。そう思っているんじゃないだろうか。
俺も母さんを思い出すとき、どうしてもその時の母さんの顔や言葉が思い出せないことがある。
悲しいんだ。
大切な人の記憶が風化していく…。
人の気配を感じて目が覚めた。
この家にいるのは、俺のほかには湯原しかいない。覚醒しきらない頭でもそれだけはわかっていた。暗闇に慣れた俺の目は、部屋の入り口に立つ客の姿をきちんと捉えた。
「湯原…。どうした?」
存外冷静な声が出た。湯原は俺が眠っていると思ったのか、ぴくりと体を跳ねさせる。
「一緒に寝ていい?」
湯原の小さな唇が震えながら、言葉を紡ぐ。
「ダメだ」
俺は反射的に否定の言葉を口走っていた。お前は誰に対してもそういうことをするのか?
最早頭も体も完全に覚醒し、俺は半身を起こして湯原を見つめた。俺のジャージとTシャツを着た湯原は、親を見失った幼稚園児のような顔でこちらを見つめ返している。
「恋人でもないのに…」
「じゃあ付き合おう」
湯原の顔は、思い人を焦がれるそれじゃない。親を求める子供のような…。今にも泣き出しそうな。
「湯原…」
「何なら本当に結婚しよう!」
「湯原!!」
怒鳴るつもりはなかった。けれど…。これ以上見ていられない。見たくない。
自分の怒声に、急速に冷えていく頭を横に二回振った。下を向いたとき、腹の前で組んだ自分の手が見えた。震えていた。
「私が…。私が家族を作るしかないじゃん……。もうダメなんだもん」
「だからって…だからって、そんなこと。そんな気持ちで結婚して、家族を作ったって…。それで本当に君は幸せになれるのか?」
「そんな気持ちって何!?私あんたのこと…」
空気が変わった。
湯原の顔も変わった。怒り。自分の意見が通らなかった悔しさ。
「もういい!!」
湯原はくるりと身を翻すと、ドアを壊さんばかりに叩きつけて部屋を出て行った。
「湯原!!」
俺は寝間着のままそれを追いかけた。
三話、三話ときて…三話で終わらない。
いい加減な自分がたまらなく好きです。
すいません、もう少し続きます。