第四十三話:湯原早紀~ごっこ~
結局雨が止まないまま、時刻は夕飯時を過ぎてしまった。
テレビの天気予報も今朝の「一日中晴れ間」という予報から、手のひらを返して、「雨は一晩中降り続ける」なんて言っている。湯原は俺の遠慮もどこ吹く風、今は台所に立って夕飯を作ってくれている。
父親と二人暮らしとは言え、実質一人暮らしのようなものだから、家事は得意なのだそうだ。
「何だか新婚夫婦みたいだね~」
その湯原が台所から間の抜けた声をかけてくる。
「いっそこのまま結婚するか?」
「おや?返しが上手くなったね」
ケタケタと陽気な笑い声が響いてきて、俺は結局気まずい思いをした。
でも…同時に懐かしくもあった。
母さんが死んでから、女性がうちの台所に立つことは皆無に近い。
女性が奏でる優しい音色。トントンとまな板を包丁で叩く音。グツグツと鍋が煮立つ音。
俺は少し瞼が重たくなるのを感じたのを最後に、まどろみの中に沈んでいった。
「コーヨー、起きて。コーヨー」
優しい声音に目が覚めた。
「母さん…」
「そうだよ…母さんだよ。起きなさい、コーヨー」
ぼんやりとした視界が徐々に焦点を取り戻してくると、湯原が優しく笑っているのが映った。
顔から火が出る思いでソファーから半身を起こすと、テーブルの上にいくつか皿が乗っているのが見えた。ミートスパゲッティとサラダ、俵形のおにぎり。それぞれ俺が作るのよりもはるかに見栄えがいい。
「飯……。作ってくれたのか?」
「一宿の恩義に報いないとね」
にかっと笑う湯原。
「やっぱり泊まる気なのか…」
「ここ追い出されたら、行くとこないしねぇ」
笑顔を崩さない湯原を見ていると、ダメだとは言いにくい雰囲気だ。だけど…。湯原は男一人しかいない家に泊まることに抵抗はないのだろうか。もしかしたら彼女はこういう状況に慣れているのかもしれない。そう思うと何だか無性に切なくなった。
「お母さんに会いたいの?」
パスタ麺をフォークにぐるぐる巻きつけていると、湯原がそんなことを言い出した。さっきのことをまだからかおうと言うのか。やり返そうと顔を上げる。湯原は複雑な、どこか煮え切らない顔をしていた。
「私はさ…。お母さんの顔もよく思い出せないんだ」
「え?」
湯原の鼻柱が赤くなっていた。
「お父さんのせいだよ…。勝手だよ。帰ってきたと思ったら……部屋にこもりっきりでさ」
最早俺に何を話していて、何を話していないかもごっちゃになっている。家出のことと関係があるのだろうとはわかったが、俺は何と言っていいのか困った。子供のようにぽろぽろ涙を零す湯原を見ていると言葉を発していいのかもわからなくなる。
しゃくりあげながら、ごめんねと謝る湯原をただ見つめていた。
可哀相だと思った。
大切な母さんを失った俺も、母親の顔も知らずに育った湯原も。どうして俺たちがこんな目に遭わなきゃいけないのか、もう随分前に諦めた理不尽への怒りが再び俺の胸に去来する。同時にやりきれない虚しさも。湯原の場合は彼女の言うとおり、父親が悪いのかもしれない。
だけど…。失ったものは帰ってこないんだよ。いくら原因を責めたところで、全ては後の祭り。
鏡で確認するまでもなく、俺はどうしようもなく情けない顔をしているだろうな。泣きじゃくる湯原を見ながら俺はそんなことを思った。