第四十二話:湯原早紀~迷い子~
あまり天気が優れない。昼間だと言うのにねずみ色の分厚い雲が、日の光を完全に遮っている。
木田の家に、借りていた小説を返しに行った帰りだった。ゴールデンウィークが終わってからでいいとは言っていたが、借りたものは出来るだけ早く返すのが礼儀だ。
「一雨来そうだな…」
ポツリと呟いたのを合図にするように、空から小さな水滴が俺の顔に落ちてきた。
家の前に誰かいる。玄関の先に立ったまま、ピンク色の傘を差している。メイメイはあんなの持ってなかったなと思いながら、近づいていくと案の定メイメイではなかった。
「湯原…。遊びに来たのか?」
声をかけると、湯原はピクリと動いてこちらを振り返った。目を見開いて俺を見つめる。雨音で俺が近づいているのに気付かなかったらしい。
「コーヨー。ゴメンね」
「何がゴメンなんだよ?」
湯原は目を伏せる。長い睫毛が大きな瞳を覆うのを見て、俺は語調がきつかったかと慌てた。
「湯原…」
「私……。家出してきたの」
俺は息を飲んだ。返す言葉が思い浮かばない。湯原の瞳が今まで見たこともないほどに強い光を帯びていたから…。
「シャワー浴びてくる」
俺は湯原とは違って、傘を持っていなかった。今は雨足は更に強まり、滝の間近に近づいたような轟音を立てて家の屋根を叩いている。
「なんかエロい~」
「追い出すぞ!」
リビングのソファーを我が物顔で占領する招かざる珍客に怒号を上げた。ごめんごめんと舌を出す湯原にはもう先ほどの真剣さは感じられない。
一体どうしたものか。まさか雨の降りしきるなか、本当に追い出すのも義にもとる。
かと言って、俺しかいないこの家に雨が止むまで置いておくのも不味い。雨足は強まるばかり、最悪泊めるようなことになってしまったら…。
俺は頭を振って湯原から目を背けると、風呂場のほうへ足を向けた。
まったりとした時間が流れていた。まるで湯原がいるのが当然のように。
リビングのソファーに二人で腰掛け、テレビを観ていた。俺は野球が観たかったのだが、彼女とのジャンケンに負けて今はサスペンスが流れている。痴情のもつれから、女が男を殺すというあまりにありきたりな展開に少し俺は辟易気味だった。隣の湯原はこういったものが好きらしく、食い入るように画面を見つめている。
俺は敢えて彼女に家出の事情を聞くようなことはしなかった。向こうから話したくなるまで待ってあげよう。そう思っていた。
気にならないと言えば嘘になるし、居場所を提供しているのだからそれを聞き出す権利があるとも思っていた。だけどそうしようとは思わなかったのだ。何となく彼女自身も自分の気持ちの整理がついていないような雰囲気を感じ取っていた。
「今日さ…。木田の家に行って来た」
だから関係のない話をしようと思った。テレビに齧りついている湯原の耳に入らなくてもいいような、どうでもいい話を。
「何しに?」
意外にも湯原はあっさりテレビを切り上げ、俺に顔を向けた。目には少し非難するような色も窺えた。
「え…えっと、俺あの子に本を借りてたんだ。それで、返しに…行ったんだけど」
まさかこんなに食いつくとは思わなかった。
「ふ~ん。まああの子文芸部だしね。本が友達みたいなとこあるしね」
「随分棘があるな?」
「ううん…。奈美とは友達だけど、ライバルでもあるからね」
湯原は含み笑い。俺がいくらその意味について尋ねても、自分で考えろとか自分の胸に手を当ててみろだとか、はぐらかされるだけだった。