第三十八話:木田奈美〜天使〜
「ごめんね、お母さんが変なこと言って」
二階に上がっても、木田はまだ少し耳の先が赤かった。弟がいるという木田家の二階には部屋が二つあって、木田はまだ幼い弟と同じ部屋で暮らしているそうだ。今年で七歳だとか。
噂をすれば陰。二階の踊り場の向こう、奥の部屋から小さな男の子が顔を出した。くりっとした目元は木田と通じるものがあった。可愛らしい子だ。
「お姉ちゃん、おかえり」
お姉ちゃんの姿を見とめると、タカタカと走って来て木田の腰の辺りにぶつかる。
ただいまと、優しく頭を撫でる木田。どうやらこの歳の離れた弟を中々可愛がっているらしい。俺はどうしたものかと、顎を掻きながら廊下の天井を見上げた。さすがに天井まではおばさんのキレイ好きも行き届かないのか、年輪を感じさせる黄ばみが所々あった。
「何だかね、早紀は少しかぶるの」
木田には不自然なさり気なさがあった。一つの部屋に男の子と一緒にいるという状況はあまり慣れないのかもしれない。かく言う俺も女の子の部屋に上がるのはメイメイ以外では初めてでどうしていいのかわからなかった。
「かぶるって弟さんと?」
今は階下でおばさんに相手をしてもらっている。
「あの子は少し子供っぽいところあるから…。私も人のこと言えないのかもしれないけど」
「そうだね」
木田は見たこともない数式に出会ったような顔をしている。どっちに対しての「そうだね」か分かりかねているようだ。恐らく両方、ついでに言うと俺も子供だ、なんて思いながら見つめ返した。
「だけど…少しマシにはなったと思うんだ……日野君のおかげで」
木田は自分のことだと思ったらしい。日野君の、の下りで俺の目を見る。
「俺は何もしちゃいないよ…どっちかって言うとかき回しただけ」
「そのかき回すってのが大事なんだよ…。私の直感は間違ってなかったってこと」
「直感?」
俺が鸚鵡返しに尋ねると、木田は少し照れくさそうに笑った。
「この人なら私を変えてくれるんじゃないかなって…」
買い被りすぎだよ、と言いかけてやめた。確かに木田は最近明るくなったような気がする。
それが俺のおかげだとは思わなかったが…。
「何だかプロポーズみたいだね」
口から漏れた言葉の意味を、遅れて理解して、俺は恥ずかしくなった。木田も折角落ち着いてきた顔色をまたポストみたいに赤くした。
タイミングよく階段を駆け上がってきた弟さんが、俺たちを救ってくれた。
プリンを持ってきてくれたらしい。小さな手に三つのプラスチックカップ。小さな顔には満面の笑み。木田が可愛がるのもわかるような天使だった。
俺は本の貸し借りという当初の目的も忘れて弟さんをいじくりまわしながら、結局夕飯時まで
木田の部屋で遊んだ。木田の面倒見の良さと、明るい笑顔を見ていると、良いお嫁さんになるだろうな、なんて思った。