第三十話:ジレンマの克服
午後五時を回っても木田は現れなかった。
電話では、四時に駅前の、やはり噴水の前に来てもらう約束だった。
噴水のジャバジャバという水音が虚しく耳朶を打つだけで、夕陽が沈む物悲しい雰囲気の中、家路を急ぐ人々が忙しなく過ぎ去っていく。
「ねえ、本当に奈美も呼んだの?」
湯原にも隠しきれるものじゃないので、木田も誘ったこと、四時に待ち合わせだということを告げていた。
「やっぱり私と会いたくないから…」
湯原の顔が悲しげに歪む。さっき観た映画のチョコが、耳を垂れて悲しそうに鳴くシーンが頭の中でリフレインする。今なら十分すぎるほど、感情移入できる。
「だから来ないんだ」
湯原の悲しそうな顔。かける言葉のない俺はただそれを黙って見ている。
俺が昨日余計な入れ知恵をしたから。いや、ひょっとすると湯原は、気丈に振舞っていただけかもしれない。本当は木田が気を悪くしているんじゃないかと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
結局帰路に着いても、肩を落として歩く湯原に気の利いた言葉は何も言ってやれなかった。
完全に予想外だった。
翌朝憂鬱な気分で、インスタントの味噌汁を啜っていると、玄関のチャイムが鳴った。
新聞の勧誘かなと思いながら、俺がドアを開けると沈痛な面持ちの木田が立っていた。
俺は挨拶をすることも忘れて、木田の顔を穴が開くほど見つめていた。
「昨日はごめんなさい」
木田の第一声はそれだった。
「…うん。無理を言ったのは俺の方だし」
家に上げようかと、顔だけ後ろを振り返った。変わり映えのない家の廊下。
顔を前に戻すと、木田が躊躇いがちに首を縦に振った。
こんな時間にごめんなさい、と言う木田の言葉に居間の掛け時計を見遣った。
父さんが最近買い換えたもので、一秒も狂わないという電波時計。朝の八時過ぎだった。
俺は木田に答えず、テーブルの向こう、父さんの黄色いクッションを勧めた。
「俺の母さんさ…五年前乳がんで死んだんだ」
これは話そうと思っていた。
唐突な俺の話に、木田は一瞬戸惑った顔を見せたが、口を挟むようなことはなく、黙って先を促した。
「そのときは凄く悲しかった…いや、今でも思い出すと悲しい」
「……」
「でも俺には父さんがいる。クマッチョやメイメイがいる…新しく友達も出来た」
木田を見つめた。湯原と…メルヘルの顔も思い浮かべた。
「湯原には……本当に分かり合える友達はいないんだ」
また俺は憶測でモノを言っているな、と思った。だけど案外的外れでもないとも思っていた。
「そんなことないよ…少なくとも日野君のことはそう思ってる。だから自分のこと話したんだよ」
「そうかもな。でもアイツは俺と同じくらい…いやそれ以上にお前のことを大切に思ってる」
だからアイツは信じた。信じたかった。来ないとわかって落ち込んだ。
「そんなこと!」
木田が目を赤くして、甲高い声を出した。
「わかるよ。アイツはお前のこと話すときが一番楽しそうだ」
「……」
「今回のことでアイツに相談したとき、アイツはお前のこと信じてたよ。私と奈美は友達だから大丈夫だって」
俺の静かな声の合間を縫って、木田の鼻をすする音が聞こえる。
居間を支配する音はそれだけだった。
「わかれよ…」
「……怒ってない…かな?早紀」
今や木田は号泣していた。懸命に鼻をしゃくりあげながら言葉を紡ぐ姿は、ただでさえ幼い風貌がより幼く、小さな子供のようだった。
「大丈夫だよ…湯原は良いヤツだからな」
子供ばっかりだ、と俺は笑いながら木田の頭を撫でた。