第二十六話:ありがとう
ベッドの上に置いた目覚まし時計に、寝ぼけ眼を向けると三時半だった。
体の具合から、午前のではなく、午後のだと思う。一度も目を覚ますことなく、十二時間以上寝ていたことになる。文字通り、泥のように眠っていたことだろう。
無理もない。あの大立ち回りだ。疲れは多少取れたが、体中がヒリヒリ、ズキズキ痛い。
俺は一つ大きな伸びをして、ベッドから這い出た。
電話のボタンを押す手も鈍い。
父さんにことの報告をしなければ、と思い立ったは良いがどう話したものか悩んでいた。
岩下は電話の最後のほうで、父さんにも話がいっていることをほのめかしていたが、当然俺からも事情を話しておくべきだろうと思う。
父さんの言うとおり、俺の正しいと思うことを行った。そのことに後悔はない。
だがしかし、仕事中の父さんにまで迷惑をかけてしまったことは素直に申し訳なかった。
それでもいつまでも電話の前に立って、モジモジしているわけにもいかない。俺は意を決して父さんの携帯に電話した。二回のコール音の後、父さんが出た。
「おう、どうした?」
呑気な声。俺が何の話をしようと電話してきたのかわかっているだろうに。父さんのそんなさり気ない優しさを感じて、俺は心にゆとりが出来たような気がした。
「父さんごめん…俺」
「謝るな」
一転して父さんが厳しい声を出した。有無を言わさないような強い意志を感じた。相手が目の前にいるわけでもないのに、背筋が伸びる。
「言っただろう?」
そんな簡単な言葉で父さんが言わんとしていることがわかる。
だから俺は、
「ありがとう」
そう言って、電話の向こうの父さんに笑いかけた。父さんの声を聞きたかっただけなのかも知れない。そう思った。
クマッチョを家に上げるのは、小学校以来になる。
母さんが死んでから、俺が熊野家に行くことはあっても、クマッチョやメイメイがこの家に来ることは少なくなった。
クマッチョは居間のテーブルの向こうで、借りてきた猫のように大人しくしている。
言葉を探しているというよりは、話すきっかけを探しているようだった。
「母さんに挨拶してってくれよ…久しぶりだろ?」
見かねた俺は居間の隣、仏壇の置かれた和室を指差してそう言った。
クマッチョは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに神妙に頷いた。クマッチョが立ち上がる。
ついて行こうかとも思ったが、結局俺は胡坐をかいたまま、その場にとどまった。
クマッチョもメイメイも、俺の母さんにはよく懐いていた。遊びに来たクマッチョが間違えてお母さんと呼ぶこともあった。彼にも思うところがあるだろう。二人きりにしてやるべきだと思った。
居間に戻って来ると、クマッチョはどこか晴れやかな顔で呟いた。
「コーヨー少し変わったね」
「俺が?」
「うん…何ていうか、おばさんのこととか、喧嘩のこととか」
クマッチョは苦笑している。
「…そうかな?」
自分では気付かない。だけどクマッチョがそう言うのならそうかもしれない。
「前よりもよく笑うようになった。それに…いきなり殴りかかったりして」
ああ、そうか。不意に気付いた。クマッチョやメイメイが俺の家に上がらなくなったのは、俺を気遣っていたんだ。母さんを知る二人が家に上がれば、いやでも俺は母さんのことを思い出す。母さんのことが話題に上るかもしれない。
クマッチョはまだ苦笑のようなものを浮かべている。俺は何と言うべきだろうか。
気を遣わせてゴメン。変われたのはお前や、色んな人が俺を支えてくれているからだ。
どれも適切じゃない。
「ありがとう」
俺はその言葉を選んだ。
「それは僕の台詞だよ」
クマッチョが苦笑を強くする。違う、やっぱり俺がありがとうなんだ。
そう言えば冷蔵庫にチョコレートがあったな、と思い出して俺はゆっくりと立ち上がった。