第二十話:熊野の彷徨(下)
「今朝より大分元気が出たみたいだね?」
メイメイがどこか遠慮がちに口を開いた。
「…だから何でもないって言ったろ?」
何でもないわけでもないが、火急に対処しなければならないような問題でもない。
今はそれよりも、クマッチョの無事な姿を見たい。俺の取り越し苦労であってほしい。
「お兄ちゃんのことなら心配要らないよ」
さすが、メイメイにはお見通しのようだ。それとも俺はそんなに心配そうな顔をしているのかと、眉間のあたりに手を当てる。気付かないうちに皺を寄せていたのがわかった。
「……」
「…憶えてる?お兄ちゃんが黙って捨て犬にエサをあげてたことがあったじゃん?」
「ああ…確か小学生んときだったかな」
憶えている。俺の母さんがまだ生きていた頃のことだった。
クマッチョが急にメイメイや俺とも遊ばなくなって、学校が終わると一人先に帰ってしまうようになったことがあった。不審に思った俺たちは、こっそり彼の後をつけることにしたのだが、家の近くの児童公園の片隅、ダンボールの中に捨てられた子犬に給食の残りをあげているのを目撃したのだった。
犬に食パンを食べさせている、彼の優しい横顔を今でも鮮明に思い出すことが出来た。
「きっとまた何か事情があるんだよ」
メイメイが俺の顔を覗きこむ。目を合わせると、彼女は優しく笑った。
クマッチョは夕食にも姿を現さなかった。
何かあったのだろうかと気が気でなく、おばさんの美味しい料理にも箸が進まない。
「誠司はどうしたんだろう?」
おじさんがモゴモゴと口にご飯を詰めながら言った。
「家には帰ってきたんでしょ?」
メイメイがやはり口をモゴモゴさせながら、おばさんに目を向ける。親子だな、と頭の呑気な部分が呟いた。
「ええ…五時くらいに。でも帰ったきり、部屋に閉じ篭っちゃって」
熊野家に着いてすぐにおばさんに確認した俺は一先ず安心したが、夕食にも降りてこないとは
思わなかった。メイメイの迎えもすっぽかしたし、食べることが唯一の趣味と言っても過言ではないクマッチョが夕飯を食べないなんて、尋常ではない。
「俺ちょっと様子を見てきます」
俺は進まない箸をテーブルに置いて、木製の椅子を引いた。
熊野家はごく平凡な二階建ての一軒家で、一階は台所や洗面所、リビングと和室がある。クマッチョの部屋、メイメイの部屋、おじさんとおばさんの部屋は二階だ。
俺は階段を駆け上がると、廊下の一番奥、クマッチョの部屋へと向かった。
「クマッチョ!どうしたんだ?いるんだろう?」
木製の扉をノックする。昔流行った子供向けアニメの主人公が描かれた、キラキラのシールがドアの中央辺りに貼られている。
「…ちょっと食欲がないんだ」
中からくぐもった声が返ってきた。
「食欲がないって…」
何か悩み事でもあるのか。メイメイが言ったとおり、また子犬にでもエサをやるために食事を取って置こうと思っているのか。
「心配しないで…ほんとちょっと…」
クマッチョは言葉を探しているようだ。俺は知っていた。クマッチョが言葉を選んで喋るときは、決まって何かを一人で抱え込んでいるときだ。
そして、こういう時、それ以上の言葉をかけても、疑問をぶつけてもクマッチョを困らせるだけだということも知っていた。
「…あとで少しでもいいから、ご飯食べるんだよ?」
中からはうん、とだけ。少し躊躇って、俺は階段へと足を向ける。
廊下の途中で振り返った。
もしかして出てくるんじゃないかと部屋のドアを少しみつめていたが、何の物音もしなくて、俺は小さく溜息を吐いた。