第二話:隠遁する馬と約束
馬の脚力と人間のそれではかけっこをしても、勝ち目はない。
しかも慣れない腐葉土の上を、乱立する木々を避けながら走っているのではなおのこと。
俺はすっかり白いお尻と尻尾を見失っていた。
「確かこっちのほうだと…」
馬は真っ直ぐ北に向かって走っていたので、きっとこっちであっているはずだと自分に言い聞かせながら、腐葉土を踏みしめる。最早本格的に日が暮れてきて、真っ暗に近い森の中を歩きながら、ふと思った。俺は何をやっているんだろう。こんな汗だくになりながら、街に広がっている噂の主かも知れない、謎の白い馬を追いかけている。切れ切れの息を大きく吐き出した。
不意に開けた場所に出た。
何故か木々が一本も生えていない。赤土が地面を覆っている。突然森から平野に抜けたような景色の変化に戸惑って、初めてデパートに連れてこられた子供のように辺りを見回す。
「ここは一体?」
こんな場所が、森の生態系を外れて存在しうるものなのか。
「…私の寝床ですよ」
するはずのない声に心臓が跳ねた。
向こう側の木々の隙間から、声がしたような気がする。
姿を現した白い馬は、後光を背負ったように全体的に淡く発光しているようだ。頭には一本、逞しい角が見える。絵画から抜け出してきたように幻想的な生き物。
「…きれいだ」
そんな言葉が口をついて出た。ユニコーンという単語を口に出そうとしていたのだ、と頭の片隅で思った。
「やはり貴方には私が見えるのですね?」
「……」
見える?何言ってんだ?当たり前じゃないか。いや、そもそも馬が喋れるのか?ユニコーンだからか?俺の頭は混乱で知恵熱を出しそうだった。
「私は…心清い者にしか見えません」
「……ユニコーンなのか?」
遅ればせながらその質問を口に出していた。
「はい。貴方たちの呼び方では、私はそのように…」
ユニコーンが一歩こちらに近づいてきた。俺は蛇に睨まれたみたいに動けない。
「…喋れるのもそのせい?」
何故当然のように会話をしているのか、未知の生物がこちらに少しずつ近づいているのに一向に逃げようとしないのか、自分でも全くわからなかった。でも、これは悪い存在じゃない。そう思えた。そう思う根拠についても全くわからなかった。
「はい」
ユニコーンが微笑んだ…ような気がした。
「お名前を伺ってもいいですか?」
「日野…日野幸陽」
「コーヨー。良い名前ですね」
今度は本当に歯を見せてユニコーンは笑う。
「私はメルヘル。好きに呼んでください」
ユニコーンが遂に、俺の目の前まで歩いてきて止まった。メルヘンをもじってるのかな、と思った。ユニコーンにも名前があるんだな、とも思った。
「…先ほども申しましたように、ユニコーンです」
「ここに住んでるの?」
「ええ、そうです……私の望みはここで静かに暮らすことです」
ユニコーン、メルヘルが俺に意味ありげな視線を向けた。
「わかってる。誰にも言うつもりはないよ。言ったとしても信じてもらえないしね」
クラスメイトに吹聴した日には、特にあの二人、木田と湯原にはキチガイ扱いされそうだ。
「ありがとうございます」
ユニコーンが俺の右手を甘噛みする。痛いような痒いような感触に自然と頬が緩んだ。