第十八話:救いのない朝
また夢を見ていた。
白いシーツと掛け布団。病院のベッド。痩せ細った母さん。頭に包帯を巻いて、鼻に呼吸器をあてがわれて、腕に点滴の針が刺さっている。
母さんが何事か呟いて寂しそうに笑った。
痩せて枯れ枝みたいになってしまった母さんの手を握った。
ポーン、と車のクラクションの音。
黒い車がフロントガラスから見える。俺を乗せた車を先行して走り出す。
俺が横を向いたらしく、父さんの顔が見えた。唇を噛みしめている。
父さんが車を発進させたようで、ゆっくりと景色が流れていく。
白い灰と、骨のようなものを見せられた。まわりの景色は見えない。俺の視線がその白いモノたちに釘付けになっているからだ。
今の俺はこれが母さんの亡骸だと、母さんの残滓だと知っている。
視界が歪む。俺はあの時泣いていたのか。
火葬場の外に出ると煙突から黒い煙が見える。
俺の手を強引に握って…父さんが何事か呟いた。
ここはどこだ?手に乾いた感触がして、見遣ると干草を掴んでいた。
ぼんやりとする頭を回転させようとするが、眠気と体の節々の痛みを訴えるだけ。隣で寝息を立てているメルヘルを見つけて、ようやく昨晩のことを徐々に思い出す。
「そっか、俺あのまま寝て…」
メルヘルの背中が気持ち良くて、二日ほどろくに寝ていなかった疲労が重なって、俺はメルヘルの背中の上で眠ってしまったんだ。どうやったのかはわからないが、メルヘルが眠ってしまった俺を干草の上に降ろしてくれたのだろう。
干草を放して、顔を触ると涙の跡が手にもはっきりと伝わった。
あの時母さんはこう言った。
「ごめんね。何もしてあげられなくて、ごめんね」
五年前に母さんの乳ガンが発覚した時に、それを基点にガン細胞が全身を蝕んでいるのもわかった。当時の俺はまだ幼くて、その事実を知らされなかったが、病院に入院することになって、会う度に尋常じゃなく痩せ細っていく母さんを見ると、母さんの身に死が迫っていることは、幼心にも容易に悟ることが出来た。
日に日に弱っていく母さんを見るのが怖くて、それでもまだ幼い俺は母さんがどうにか助かる道があるんじゃないかと、俺にも出来ることがあるんじゃないかと、藁にも縋るような思いで毎日学校が終わると病院に足を運んだ。
母さんは毎日来ては、助かるよねと聞くバカな俺にただ一言
「お母さんの手を握っていて」と言った。
母さんは俺がもっと小さな頃、風邪を引いてヒドイ熱を出した時、一晩中俺の手を握っていてくれた。母さんは、病気のときは誰かと手をつないでいないとダメなのと言っていた。
当時の俺にはそれが何の役に立つのかわからなかった。もっと何か、母さんの病気を治す根本的な何かに繋がる仕事が欲しかった。母さんが助かるなら何でもするつもりだった。
何もしてあげられなかったのは、俺のほうだった。
母さんは四年前の七月に息をひきとった。
一年余りの闘病生活の最期は、激痛と衰弱で眠ることも困難な状態だったそうだ。
精神的なショックからか、俺はその頃から母さんの葬儀あたりまであまり記憶が鮮明ではなかった。でも今思い出した。
父さんが火葬場で呟いたのは…。
「お前が手を握ってあげてたから、お前がいたから…母さんはこれまで頑張って来れたんだよ」
父さんの台詞を自分で言っているうちに、胸が熱くなった。目頭が湿っていく。
メルヘルを起こさないようにしなきゃと思った。
俺は声を押し殺して泣いていた。