第十話:本には載っていないこと
翌日、日曜日は昼過ぎまで寝ていた。やはり昨日の疲労が多分に残っていたのか、ベッドから体を起こしても倦怠感がまだある。首を傾けるとポキポキと骨が鳴った。
一階に下りると、父さんの姿は見当たらず、食卓の上に書置きが残っているだけだった。
“今日から泊り込みになります。お馬さんによろしく”
見慣れた父さんの達筆。書置きを持ち上げると、福沢諭吉が顔を出した。今月の小遣いだ。
やっぱり父さんは一月以上顔を合わせていなかった俺の様子を見るために、ここ二、三日早く帰って来ていたんだろう。ありがとう、と呟いて一万円札を財布にしまった。
ユニコーンの起源は紀元前のギリシアにまで遡り、ヨーロッパ世界で脈々と語り継がれる。
非常に獰猛で、プライドが高く、人に懐くことはまずない。懐くのは処女だけ。
またその角には、解毒作用があり、ペストが大流行した頃には、教皇パウロス三世もそれを求めたという……
切り捨てるように本を閉じた。俺の家からは学校よりも遠い、市立図書館にわざわざ足を運んだが、無駄骨だったようだ。小さく伸びをしながら周りを見回すと、脇目も振らずに参考書とにらめっこしている浪人生とおぼしき若者と、経済専門の新聞を読み耽っている中年の男性以外に利用客は見当たらない。何だか無性に空しくなって、何も借りずに図書館を出た。
本にあったユニコーンに関しての記述は、メルヘルの性質とはまるっきり違っていた。彼女は獰猛とは対極だ。俺が頭を撫でても気持ちよさそうにしているだけ。人語、しかもマイナー言語である日本語を解するなんて記述はどこにもなかったし、俺は処女でもなければそもそも女ですらない。角のことはよくわからない。
考えてみれば当たり前か。メルヘルは人と変わらない知能を持っている。それは人と同様、良いヤツもいれば、悪いヤツもいるってことだ。
夕陽を背負って、来た道を引き返していく。この先には図書館くらいしかなく、人とすれ違うこともない。思考は再びメルヘルのことに引き返していく。
彼女についてはわからないことばかり、というのも事実だ。だからこそ何かを掴もうと図書館まで来たのだから。彼女は何故日本に、しかもこんな微妙な地方都市の森に住んでいるのか。
何故俺にだけ仲良くしてくれるのか。何故心清い者にしか見えないのか。
相手のことを深く知ることだけが、仲良くなる手段だとは思わないけど…
家の近くまで戻って来ると、見知った丸い背中を見つけた。クマッチョの家は俺の家から歩いて五分とかからない。
「おおい、クマッチョ!」
丸い背中が振り返り、俺を見つけるとすぐに人懐っこい笑顔を浮かべた。
「どこ行くんだ?」
「ちょっとお腹が空いたから…」
クマッチョのつま先の方向には、コンビニエンスストアがあるのを思い出す。俺はまたか、と苦笑いした。これ以上太ってもクマッチョに良いことは一つもないだろうに。
「……芽衣がお世話になったね」
「お世話ってほどでも…」
何なんだ、水臭い。
「おんぶしてもらったって喜んでたよ」
「…クマッチョも来れば良かったのに」
本当は来たかったんじゃないのか。
「僕は…怖がりだからダメだよ」
「兄妹揃って怖がりか?」
わざとからかうような軽い口調で言った。
「アイツのは芝居だよ。コーヨーにおんぶしてもらおうと思って」
クマッチョが言っているのは、小学生のとき三、四年合同の林間学校で行われた肝試し大会のときのことだ。メイメイは俺と組んでいたのだが、ランタンを糸で吊るしただけの安っぽい人魂に腰を抜かして、俺が彼女を背負って帰る羽目になったのだ。
「アイツ…」
演技だったとは。明日会ったら叱ってやろうか。
僕は行くよ、と言って歩き出したクマッチョの背中は、夕陽を浴びて少し寂しそうに見えた。