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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第三章 闘争

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崔毖

 この頃、平州刺史・崔毖さいひつは自分を中原における人望の士だと思っていた。しかしながらそんな自分が遼東を鎮守しているのに、士民の多くが慕容廆ぼようかいに帰していたため、心中で不平を抱いていた。


 因みに崔毖は曹魏の崔琰の曾孫である。


 崔毖はしばしば使者を送って士民を招いていたが、誰も来ないため、慕容廆が拘留していると思い、秘かに高句麗、段氏、宇文氏を説得して、共に攻撃させようとした。慕容廆を滅ぼした後は、その地を分け与えると約束した。


 崔毖が親しくしていた勃海の人・高瞻こうせんが尽力してその行動を諫めたが、崔毖は従おうとしなかった。


 こうして、三国が兵を合わせて慕容廆を伐つことになった。


 慕容廆の諸将が攻撃の許可を請うたが、慕容廆はこう言った。


「彼らは崔毖に誘われたため、一時の利を求めようと欲しているに過ぎない。今は軍勢が合流したばかりなので、その勢いは甚だ鋭く、戦うことができないだろう。守りを固めて勢いを挫くべきだ。彼らは烏合の衆で、意思や指揮が統一しておらず、互いに帰服することはない。久しく経ったら必ずや二心を抱き、一つは我々(慕容氏)と崔毖が共謀して彼らを偽り、覆滅しようとしているのではないかという疑いを抱き、二つは三国の間で互いに猜疑を抱くようになるだろう。彼らの人心が離散・分裂するのを待ち、その後に撃てば、必ずや破ることができるだろう」


 三国が棘城に進攻した。


 慕容廆は門を閉じて守りを固めると、使者を派遣して、宇文氏だけに牛酒を贈って慰労した。


 それを知った高句麗と段氏の二国は、宇文氏と慕容廆の間に策謀があると疑い、それぞれ兵を率いて帰った。


 しかしそれを見て、宇文大人・宇文悉獨官うぶんそんじつえんは、


「二国は帰ったが、私が独りでこれを取るのみである」


 と言い、攻撃を続けた。


 この時の宇文氏の兵は数十万おり、四十里にわたって営を連ねていた。


 慕容廆は使者を派遣して徒河から子の慕容翰ぼようかんを招いたが、慕容翰は使者を送って慕容廆にこう進言した。


「宇文悉獨官は国を挙げて寇を為しており、彼が多勢で我々は無勢なので、計を用いて破るのは容易でも、力を用いて勝つのは困難です。今、城中の衆は禦寇(敵を防ぐこと)するに足りているので、私は外で奇兵となり、隙を伺って撃つことを請います。内外が共に奮戦することで、彼らを震撼・驚愕させて、どう備えればいいかも分からなくさせれば、これを破るのは必至です。今、兵を併せて一つにしてしまえば、彼は攻城に専心でき、他の憂慮が無くなるので、的を得た策ではありません。そもそも、兵を併せることで衆人に我々が敵を恐れている姿を示したら、恐らく戦う前に士気を失うことになります」


 慕容廆は躊躇したが、遼東の人・韓寿かんじゅが慕容廆に、


「宇文悉獨官には侵犯の志こそありますが、その将らは驕慢で、兵は怠惰で、軍が堅固ではないので、奇兵が突然起きて後ろからその不備を撃てば、敵を必ず破る策となりましょう」


 と進言したため、慕容翰が徒河に留まることを許可した。


 一方、宇文悉獨官は慕容翰が徒河に留まったと聞くと、


「慕容翰はかねてから驍勇果断によって名が知られている男だ。今、城に入らなかったのは、あるいは患いとなるかもしれない。先にこれを取るべきだ。城は憂うるに足りない」


 そこで数千騎を分遣して慕容翰を襲わせることにした。ここで全力で潰しにかかるだけの度胸か、気にしないだけの鈍感ささえ持っていれば、この戦いの結果は違ったかもしれない。


 この動きのことを知った慕容翰は、部下に段氏の使者を装わせ、悉獨官が派遣した騎兵を道中で迎えてこう伝えさせた。


「慕容翰は久しく我が患いとなっています。これを撃つと聞きましたので、私は既に兵を配置して待機していました。速やかに進むべきです」


 使者が出発してから、慕容翰はすぐに城を出て、伏兵を設けて待った。


 宇文氏の騎兵は使者に会って大いに喜び、馳せて前進した。改めて備えを設けることなく、伏兵の中に進入した。そこを慕容翰が奮撃し、宇文氏の騎兵を悉く捕えた。更に勝ちに乗じて直接兵を進め、同時に密使を送って慕容廆に告げ、兵を出して大戦させた。


「今こそ、勝負の時だ」


 慕容廆は子の慕容皝ぼようこうと長史・裴嶷はんぎょくに精鋭を率いて前鋒とさせ、自ら大軍を指揮して後に続いた。


 宇文悉獨官は備えを設けていなかったため、慕容廆が至ったと聞くや驚き、部衆を全て出して戦った。前鋒が交わったばかり瞬間、慕容翰が千騎を率いて直接側面から宇文悉獨官の本営に突撃を仕掛け、


「火を放て」


 と、すぐさま火を放って焼いた。


 宇文悉獨官の兵は皆、恐怖して混乱するばかりでどうすればいいかも分からなくなり、ついに大崩れとなった。宇文悉獨官はその身一つでなんとか逃れた。


 慕容廆は宇文悉獨官の衆を全て捕虜にし、宇文氏に伝わる皇帝の玉璽三紐を得た。


 崔毖は宇文悉獨官が敗れたと聞いて懼れを抱き、兄の子・崔燾さいとうを派遣して棘城を訪ねさせ、偽って祝賀した。


 そこにちょうど三国の使者も至って和を請い、慕容廆にこう言った。


「この度の出兵は我々の本意ではなく、崔平州が我々にそうさせたのです」


 慕容廆はこれを崔燾に示して武器を向けた。崔燾は懼れて罪を認めた。


 そこで慕容廆は崔燾を送り還して崔毖に、


「降るのは上策、走るのは下策である」


 と伝えさせ、自ら兵を率いて崔燾の後に続いた。


 崔毖は家を棄てて数十騎と共に高句麗に奔った。その部衆は全て慕容廆に降った。


 慕容廆は子の慕容仁ぼようじんを征虜将軍にして遼東を鎮守させ、官府や市里は今までと同じように安定を保たせた。


 高句麗の将・如奴子みょうどしが于河城を占拠していたが、慕容廆が将軍・張統ちょうとうを派遣して襲撃させ、如奴子を捕えてその兵・千余家を捕虜にした。


 崔燾、高瞻、韓恆かんこう石琮せきそうが棘城に帰順したので、慕容廆は客礼を用いて遇した。


 因みに石琮は石鑒の孫である。


 韓恆は安平の人で字を景山といい、父の韓黙かんもくは学行によってその名を馳せた人物である。


 韓恒は十歳にして文才に長け、同郷の張載ちょうたいに師事した。身長は八尺一寸にもなり、堂々たる体つきをしていたという。経籍を広く学んで精通しないものはなく、張載は彼の才能を見て、


「王佐の才である」


 と評された人物である。


 慕容廆が高瞻を将軍に任命したが、高瞻は病と称して官に就かなかった。慕容廆はしばしば自ら高瞻を訪ねて様子を伺い、その胸を撫でてこう言った。


「君の病は他でもない、ここにある。今は晋室が喪乱しており、私は諸君と共に世難を清めて帝室を補佐したいと思っている。君は中州の望族なので、この願いを同じくするべきだ。なぜ華夷(漢族と異民族)の違いを理由にして、頑なにこれを疎かにするのだろうか。功を立てて事を成す時というのは、ただ志略(抱負と才略)がどのようであるかを問うだけである。なぜ華夷の違いを問う必要があるのだ」


 それでも高瞻が立ち上がろうとしないため、慕容廆は頗る不平を抱くようになった。


 元々龍驤主簿・宋該そうがいは高瞻と間隙があったため、慕容廆に対して高瞻を除くように勧めるようになった。


 慕容廆は従わなかったが、高瞻はそれを聞いて憂患によって死んでしまった。


 かつて東莱太守・鞠羨が死んでから、苟晞が鞠羨の子・鞠彭きくほうを東莱太守にしていた。


 ちょうどその頃、曹嶷そうぎょくが青州を巡って各地を攻略し始め、鞠彭とも交戦するようになっていた。


 曹嶷の兵は強盛でしたが、郡人が皆、鞠彭のために死戦したため、曹嶷は東莱を攻略できなかった。


 しかし、久しくして鞠彭が嘆いて言った。


「今は天下が大いに乱れて強者が雄となっている。曹嶷もまた郷里の人であり(鞠彭と曹嶷はどちらも斉の人)、天に助けられている。人々が頼ることができるのなら、民の主となるべきだろう。なぜ彼と力争して、百姓に肝脳で地を塗らせる必要があるのだ。私がここを去れば、禍は自然に止むだろう」


 郡人は反対して、曹嶷を拒む策を争って献じたが、鞠彭は一つも用いることなく、郷里の千余家と共に海路から崔毖に帰順することにした。


 北海の人・鄭林ていりんは東莱に客居していたが、鞠彭と曹嶷が交戦しても、心がどちらかに傾くことはなかった。曹嶷は鄭林を賢才とみなして敢えて侵犯しなかった。


 鞠彭は鄭林と共に東莱を去りましたが、遼東に至った時、崔毖が既に敗れていたため、慕容廆に帰順した。


 慕容廆は鞠彭を参龍驤軍事に任命した。


 鄭林には車牛・粟帛を贈ったが、鄭林は全て受け入れず、自ら野を耕した。


 宋該が慕容廆に対して東晋に献捷(戦勝の報告をして捕虜や戦利品を献上すること)するように勧めた。慕容廆は宋該に上表を準備させてから、裴嶷に上表と併せて宇文氏から得た三璽を持たせ、建康を訪ねて献上させた。


 高句麗がしばしば遼東を侵したため、慕容廆が慕容翰と慕容仁を送って伐たせた。


 すると高句麗王・乙弗利おつふりは慕容翰らを出迎えて盟を求めた。慕容翰と慕容仁は引き還した。


 


 

 



 

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― 新着の感想 ―
[一言] 生没年不詳のこの人は朝鮮で活躍した説もありますが、他人からどうみられてるかわからない性格では、ろくな末路じゃなかったんだろううなと思います。
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