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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第三章 闘争

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趙漢の分裂

 南陽王・司馬保しばほが自ら晋王を称して建康元年に改元した。百官を置いて、張寔ちょうしょくを征西大将軍・開府儀同三司に任命した。


 前年、陳安ちんあんが自ら秦州刺史を称し、東晋に叛して漢趙に降ってから、更に成漢にも降った。


 上邽(司馬保の拠点)が大飢饉に襲われ、士衆が困迫したため、張春ちょうしゅんが司馬保を奉じて南安の祁山に向かった。


 張寔が韓璞かんぼくを派遣し、歩騎五千を率いて司馬保を援けさせたため、陳安は退いて緜諸を守り、司馬保は上邽に帰った。


 しかし間もなくして司馬保がまた陳安のために逼迫したため、張寔がその将・宋毅そうきを送って援けさせた。


 陳安はやっと退いた。


 







 東晋の祖逖そてきが蓬関で陳川を攻めた。石勒せきろくはそれを受けて石虎せきこを派遣して、兵五万を率いて陳川を救援させた。


 両軍は浚儀で戦い、祖逖の兵は敗れた。祖逖は退いて梁国に駐屯した。


 石勒が更に桃豹とうひょうを派遣し、兵を率いて蓬関に至らせたため、祖逖は淮南まで退いて駐屯した。


 石虎は陳川の部衆五千戸を襄国に遷し、桃豹を留めて陳川の故城を守らせた。


 石勒はそんな石虎を派遣して朔方で鮮卑の日六延ひろくえんを撃たせた。石虎は鮮卑を大破して二万級を斬首し、三万余人を捕虜にした。


 石勒の将・孔萇こうちょうも幽州諸郡を攻めて全て奪った。


 そのころ、段匹磾だんひつていは士衆が飢餓・離散したため、上谷に移って守ろうとした。


 しかし代王・鬱律うつりが兵を指揮して段匹磾を撃ったため、段匹磾は妻子を棄てて楽陵に奔り、東晋の冀州刺史・邵続しょうぞくを頼った。


 青州・曹嶷そうぎょくが使者を派遣して石勒に賄賂を贈り、黄河を境とするように請うた。


 石勒はこれに同意した。


 胡三省はこれに対して、


「曹嶷は既に河に沿って戍(守備兵)を置いていた。今回、石勒に賄賂して河を境とするように請うたのは、石勒の侵犯を懼れたからである」


 と解説している。








 梁州刺史・周訪しゅうほうは何度戦っても杜曾とそうと勝てずにいた。そこで周訪は密かに山道より人を派遣し、迂回して杜曾に奇襲をかけるという奇策に打って出た。


 これにより、杜曾の軍は潰走し、彼の配下である馬雋ばしゅん蘇温そおんらは、杜曾を捕縛して周訪に投降した。


 周訪は猛将というべき杜曾の実力を惜しみ、生かして武昌に移そうと考えたが、朱軌の息子である朱昌しゅしょうと、趙誘の息子である趙胤ちょういんが杜曾を殺して父の仇を討ちたいと懇願したので、杜曾は斬首され、朱昌と趙胤は杜曾の肉を千切って食べた。


 併せて元荊州刺史・第五猗だいごきを捕え、武昌に送った。


 周訪は、第五猗が本来は朝廷によって配置された刺史であり、しかも時望(当時における声望)があったため、王敦おうとんに、


「殺すべきではない」


 と進言したが、王敦は周訪の意見を聴かずに殺してしまった。


 以前、王敦は杜曾を制すのが困難なことを患い、周訪にこう言っていた。


「もし杜曾を捕えたら、論功によって荊州刺史にしよう」


 しかし、杜曾が死んでも王敦は周訪を用いなかった。


 荊州刺史・王廙おうよくは荊州で前荊州刺史・陶侃とうかんの将佐を多数殺していた。


 特に陶侃に敬重されていた皇甫方回こうほほうかいが王廙の元に訪ねに来なかったことを譴責し、逮捕して斬ったことで、士民が怨怒して上下が不安になった。


 それを聞いた東晋の元帝・司馬睿しばえいは王廙を朝廷に召して散騎常侍に任命し、代わりに周訪を荊州刺史に任命しようとした。


 しかしながら王敦は周訪の威名を忌み嫌っていたため、反対した。


 そこで従事中郎・郭舒かくじょが王敦に説いた。


「鄙州(我が州。荊州。郭舒は荊州で劉弘や王澄に仕えてきた人物)は荒弊しているとはいえ、まだ用武の国なので、人に授けるべきではありません。自ら統領するべきです。周訪は梁州刺史にすれば充分でしょう」


 王敦はこの意見に従った。


 六月、元帝が詔を発して周訪に安南将軍を加えたが、その外の官位は今まで通りとした。


 これに周訪が大激怒した。これにはあの王敦が直筆の書を送って説得し、あわせて玉環と玉椀を送って厚意を示すほどであった。


 しかし周訪はそれを地に打ちつけて、


「私は賈豎(商人の蔑称)だというのか。宝物で悦ばせることができるか」


 と叫んだ。


 周訪は襄陽で農業に務めて兵を訓練し、秘かに王敦を図る志を抱いた。守宰(地方の長官)に欠員が出てもすぐに自分で補ってから報告した。王敦はこれを患いつつも、制御できなかった。


 魏該ぎがい(宜陽の一泉塢を守っている)が胡寇を受けて逼迫したため、宜陽から兵を率いて南の新野に遷っていた。


 周訪が杜曾を討った時、魏該も周訪を助けて功を立てたので、順陽太守に任命されまた。


 










 漢趙から東晋に降った趙固ちょうこが死んだ。彼と共に陽翟に駐屯していた郭誦かくようは継続して留まっていたため石勒の将・石生せきせいがしばしば郭誦を攻めたが、攻略できないでいた。


 そのころ、漢趙帝・劉曜りゅうようが長安に宗廟・社稷と南北郊(天地の祭祀の場所)を築き、詔を発した。


「私の祖先は北方で興起した。光文(劉淵)は漢の宗廟を立てることによって民望に従ったが、今は、国号を改めて、単于を祖とするべきである。速やかに議して報告せよ」


 群臣が上奏した。


「光文(劉淵)は始め盧奴伯に封じられ、陛下もまた中山で王になりました。中山は趙の分(分野。旧領土)です。国号を改めて趙とすることを請います」


 漢趙帝はこれに従い、国号を漢から趙に改めた。そのためこの国は「漢趙」と呼ばれているのである。


 また、石勒も「趙」という国を建てるため劉氏の「趙」は「前趙」、石氏の「趙」は「後趙」と言われるようになる。そのため以降、漢趙帝は前趙帝と記すことにする。


 前趙帝は冒頓単于を天に配し、光文帝(劉淵)を上帝に配した。








 兗州刺史を称した徐龕じょきゅうが済・岱(済水・岱山一帯)を侵犯・略奪して東莞(地名)を破った。


 東晋の元帝が王導おうどうに徐龕を討伐できる将帥について問うと、王導は、


「太子左衛率・泰山の人・羊鑒ようかんならば、徐龕の州里の冠族(顕貴な豪族)なので、必ず制すことができます」


 と主張した。


 羊鑒自身は強く辞退して、


「自分は将帥の才ではない」


 と言い、郗鑒ちかんも上表して、


「羊鑒はその才ではないので、使うべきではない」


 と言ったが、王導は従わなかった。


 東晋が羊鑒を征虜将軍・征討都督に任命し、徐州刺史・蔡豹さいひょう、臨淮太守・劉遐りゅうかおよび鮮卑の段文鴦だんぶんおうらを督して徐龕を討たせた。


 十月、東晋の平北将軍・祖逖が督護・陳超ちんちょうを派遣して石勒の将・桃豹を襲わせたが、陳超が敗れて陣没した。


 そのころ、石勒の左・右長史・張敬ちょうけい張賓ちょうひん、左・右司馬・張屈六ちょうくつろく程遐ていからが、石勒に対して尊号を称すように勧めたが、石勒は同意しなかった。


 十一月、将佐らが再び石勒に請い、大将軍・大単于・領冀州牧・趙王を称すように勧めた。更に、蜀の漢昭烈(劉備)や鄴の魏武(曹操)の故事に則って、河内等の二十四郡を趙国とすること、太守を皆、内史に改めること、『禹貢』に基づいて冀州の境を回復すること、大単于として百蛮を鎮撫すること、并・朔・司の三州を廃し、統一した部司を置いて監督させることを請うた。


 河内、魏、汲、頓丘、平原、清河、鉅鹿、常山、中山、長楽、楽平、趙国、広平、陽平、章武、勃海(渤海)、河間、上党、定襄、范陽、漁陽、武邑、燕国、楽陵の二十四郡国を趙国とした。


『禹貢』は『尚書』の一篇で、夏禹が定めた九州について書かれている。かつて魏武(曹操)が冀州の境界を回復して、南は孟津に、西は龍門に、東は河(黄河)に、北は塞垣(辺塞、長城)に達するようにした。


「并・朔・司の三州」に関しては、晋代は朔州を置いていなかったため、胡三省は「この朔州は誰が置いたのか分からない」と書いている。


 石勒はこれらの進言に同意し、石勒が趙王の位に即き、大赦した。


 春秋時代の列国に倣って、年号を立てずに趙王元年と称した。


 以後、石勒のことを後趙王・石勒と記すことにする。


 こうして東晋、成漢、前趙、後趙の四国が並立することになった。


 以前、後趙王は、世が乱れているのに律令が煩多だったため、法曹令史・貫志かんしに命じ、綱要を選び集めて『辛亥制』、五千文(字)を作らせ、十余年間施行してから律令として用いた。


 また、理曹参軍・上党の人・續咸せきいを律学祭酒に任命した。


 續咸は法を用いて詳平(細密・慎重かつ公平)だったので、国人に称賛された。


 中塁将軍・支雄しゆうと游撃将軍・王陽おうように門臣祭酒を兼任させ、専門に胡人の辞訟(訴訟)を主管させた。


 胡人が衣冠の華族(名門の漢族)を凌辱・侮蔑することを厳しく禁止し、胡人を「国人」と号すことにした。


 使者を派遣して州郡を巡行、巡視させ、農業を奨励・監督させた。


 朝会では始めて天子の礼楽を用い、衣冠・儀物が従容として立派であった。


 張賓に大執法の官を加え、朝政を総領させた。


 石虎を単于元輔(「元輔」は帝王を輔佐する重臣)・都督禁衛諸軍事とし、またすぐに驃騎将軍・侍中・開府を加えて中山公の爵位を下賜した。


 その他の群臣に対しても、それぞれ差をつけて官位を授けたり爵位を進めた。


 張賓の地位と待遇は特に厚くされており、群臣に及ぶ者がいなかったが、張賓自身は謙虚敬慎で、下士に対して心を開き、阿私(私情に基いた不公平な事)を拒絶し、身をもって人々の模範になり、朝廷に入ったら計策・諫言を尽くし、名声・功績は石勒に帰した。


 そのため、石勒は張賓を甚だ重んじており、每朝、容貌を正して言葉を選び、張賓を「右侯」と呼んで、直接、名を呼ぶことはなかった。


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