趙漢の混乱
曹嶷は青州を占拠してから、漢趙に叛して東晋に来降した(前年、建康に使者を派遣して勧進表を奉じることで帰順の意思を示した)。
しかし建康が遥遠で後援が接していないため、再び石勒と結んだ。
「どっちつかずの蝙蝠野郎が」
石勒はそう吐き捨てつつ、曹嶷に東州大将軍・青州牧の官を授けて琅邪公に封じた。
その頃、東晋は尚書左僕射・刁協を尚書令に、平南将軍・曲陵公・荀崧を尚書左僕射に任命した。
刁協は性格が剛強で、周りの者とは多くの事で意見が衝突していたが、侍中・劉隗と共に元帝に寵任されていた。
刁協は時弊(当時の弊害)を矯正したいと思い、いつも皇帝を尊重して臣下を抑え、豪族や名門を排斥・抑制しようとしたため、王氏に憎まれた。諸々の苛酷かつ煩瑣な政策に関して、王氏から、
「全て劉隗と刁協によって立てられた」
と言われるようになった。
また、刁協は酒に任せて放縦になり、公卿を侵犯中傷したため、刁協に会った者は皆、視線をそらせて畏れるようになった。
劉虎が朔方から拓跋鬱律の西部を侵したが、拓跋鬱律が劉虎を撃って大破した。劉虎は逃走して塞を出た。
劉虎の従弟・劉路孤がその部落を率いて拓跋鬱律に降った。
そこで、拓跋鬱律は西に向かって烏孫の故地を取り、東に向かって勿吉(東北地方の勿吉族が住む地)以西を兼併した。拓跋氏は士馬が精強で、北方の雄となった。
そんな中、漢趙の昭武帝・劉聡が病床に臥すようなっていた。
大司馬・劉曜を召して丞相とし、石勒を大将軍にして、二人に尚書の政務を主管させ、遺詔を授けて輔政を命じた。
しかし劉曜と石勒が固辞したため、劉曜は丞相・領雍州牧に、石勒は大将軍・領幽冀二州牧にした。
石勒はやはり辞退して受け入れなかった。
上洛王・劉景を太宰に、済南王・劉驥を大司馬に、昌国公・劉顗を太師に、朱紀を太傅に、呼延晏を太保に任命し、共に尚書を主管させた。
また、范隆を守尚書令・儀同三司に、靳準を大司空・領司隸校尉に任命し、順番に尚書の奏事を裁決させることにした。
その数日後、昭武帝は死んだ。
彼は父・劉淵に愛された戦の才能は本物であったが、即位した後は女色に狂い、猜疑心を強めそれによって劉淵が残した遺産というべき多くの臣を処刑していった。劉淵は匈奴として天に志を示し、震わせるほどのものを持っていたが、彼の息子らはそれを受け継がなかった。
太子・劉粲が即位した。趙漢の隠帝である。
隠帝が昭武帝の皇后・靳氏(靳準の娘)を尊んで皇太后とし、樊氏(故張后の侍婢)を弘道皇后と号し、宣氏(宣懐の娘)を弘徳皇后と号し、王氏(王沈の養女)を弘孝皇后と号すことにした。
また、妻の靳氏を皇后に立てて、子の劉元公を太子にした。
昭武帝を宣光陵に埋葬し、諡号(昭武皇帝)を贈って廟号を烈宗と定めた。
靳太后らは皆、年が二十にも満たなかった。そのため隠帝は太后らに対して多くの無礼を行い、喪中にも関わらず、哀痛しなかった。
靳準は心中で異志を抱いており、秘かに隠帝にこう言った。
「聞くところによると、諸公が伊・霍の事(「尹・霍」は商代の伊尹と漢代の霍光。帝王に代わって摂政した人物たち)を行おうと欲しており、まずは太保(呼延晏)および臣を誅殺して、大司馬(劉驥)に万機を統べさせようとしているようです。陛下は早くこれを図るべきです」
ところが、隠帝が従わなかったため、靳準は懼れを抱き、二人の靳氏(一人は昭武帝の后で当時の皇太后、一人は隠帝の皇后)からも隠帝に進言させた。
隠帝はついに従い、太宰・劉景、大司馬・劉驥、劉驥の同母弟・車騎大将軍・呉王・劉逞、太師・劉顗、大司徒・斉王・劉勱を逮捕して全て殺した。
朱紀と范隆は長安の劉曜の元に奔った。
隠帝は上林(平陽に上林苑が造られた)で兵を整え、石勒討伐を謀った。丞相・劉曜を相国・都督中外諸軍事に任命して引き続き長安を鎮守させ、靳準を大将軍・録尚書事に任命した。
隠帝は常に後宮で遊宴していたため、軍事と国政の事は一切が靳準によって決裁されていた。靳準が矯詔(偽りの詔)によって従弟の靳明を車騎将軍に、靳康を衛将軍に任命した。
靳準は乱を為そうとして王延と謀ろうとした。
王延はこれに従わず、馳せて隠帝に報告しようとしたが、途中で靳康に遭遇し、靳康は王延を脅迫して連れ還った。
靳準がついに兵を率いて光極殿に登り、甲士に隠帝を捕えさせ、罪を数え上げて殺し、「隠帝」という諡号を贈った。
劉氏の男女も長幼に関係なく、全て東市で斬られた。
更に永光・宣光二陵(光文帝・劉淵と昭武帝・劉聡の墓陵)を暴き、劉聡の屍を斬ってその宗廟を焼いた。
靳準は自ら大将軍・漢天王を号し、称制(皇帝の代わりに命令を出すこと)して百官を置いた。
靳準が安定の人・胡嵩に言った。
「古から今まで、胡人で天子になった者はいない。今、伝国の璽を汝に預けるので、晋家に還しに行け」
しかし胡嵩が受け取ろうとしなかったため、靳準は怒って殺した。
靳準は使者を派遣して晋の司州刺史・李矩にこう告げた。
「劉淵は屠各(匈奴の部族名)の小醜に過ぎないにも関わらず、晋の乱に乗じて、天命を偽り称し、二帝を死亡させました。私はすぐに兵を率いて皇帝の棺を奉じて移動するので、朝廷に報告することを請います」
李矩は車馬を馳せさせて東晋の元帝・司馬睿に上表した。
元帝は太常・韓胤らを派遣して梓宮を迎え入れることにした。
漢趙の尚書・北宮純らが晋人を招集して東宮を堡営にしたが、靳康が攻めて滅ぼした。
靳準は王延を左光禄大夫に任命しようとしたが、王延は罵ってこう言った。
「屠各の逆奴よ、なぜ速く私を殺さないのだ。私の左目を西陽門に置け。相国(西の劉曜)が入るのを観るためだ。右目を建春門に置け。大将軍(東の石勒)が入るのを観るためだ」
靳準は王延を殺した。




