王鑒
安定太守・焦嵩と討虜将軍・陳安が兵を挙げて上邽に迫った。
相国・司馬保は使者を送って張寔に急を告げた。
張寔は金城太守・竇濤を派遣し、歩騎二万を督して赴かせた。
竇濤の軍が新陽に至った時、愍帝崩御の報せが届いたため、司馬保が謀って尊号を称そうとした。
破羌都尉・張詵が張寔に言った。
「南陽王(司馬保)は国の疏属(傍系の親族)なのに、その大恥を忘れてすぐに自尊を欲しています。成功できるはずがありません。晋王は近親で、しかも名徳があるので、天下の人を率いて彼を奉じるべきです」
司馬保は宣帝(司馬懿)の弟・司馬馗の曽孫で、晋王(元帝)は宣帝の曽孫に当たるため、司馬保は「疏属」、晋王は「近親」になる。
張寔は張詵の意見に従い、牙門・蔡忠を派遣して、上表を奉じて建康を訪ねさせた。
蔡忠が到着した時には、元帝が既に即位していた。
しかし張寔は江東の年号を用いず、そのまま愍帝の年号である建興を称した。
その頃、東晋が王敦に江州牧を加え、王導を驃騎大将軍・開府儀同三司にした。
王導が八部従事を派遣して揚州の郡国を巡行させた。
諸従事が帰還して共に王導に会いに行き、それぞれ二千石の官長(太守・国相)の得失について発言したが、顧和だけは無言であった。
王導がその理由を問うと、顧和はこう言った。
「あなた様は陛下を輔佐する立場になったので、むしろ、舟を呑みこむような大魚でも漏らしてしまうほど、法を緩くするべきです。なぜ、風聞を聴き集めて、察察(細かくて潔白すぎること)によって政を為そうとしているのですか?」
王導は感嘆して称賛した。
顧和は字を君孝といい、顧榮の族子(同族兄弟の子。自分より一代下の親族)である。二歳の時に父を失ったが、幼年の頃から節操高く、族叔の顧栄に重んじられて、
「これは我が家の麒麟であり、我が一族を興す者は、必ずやこの子である」
と評された人物である。
漢趙の中常侍・王沈の養女は美しかったため、漢趙の昭武帝・劉聡が左皇后に立てた。
尚書令・王鑒、中書監・崔懿之、中書令・曹恂が諫めた。
「私が聞くに、王が立てる后とは、徳が乾坤(陰陽・天地)に匹敵し、生きている間は宗廟の祭祀を受け継ぎ、没したら后土(土地神)に配され、必ず世徳名宗(代々功徳がある名門)かつ柔順・清静で美善な女性から択ぶものであり、そうすることで四海の望みに副い、神祇の心に符合させるのです。前漢の孝成帝は趙飛燕を后としたため、後継者を絶滅させ、社稷を廃墟にしました。これは前鑑(前代の教訓)です。麟嘉以来、皇后の位は徳によって挙げられていません。たとえ王沈の妹や娘であっても、王沈は刑余の小醜(刑を受けて生き残った醜い者。宦官)なので、なお椒房(皇后の宮殿)を汚すことはできません。その家婢であるのならなおさらです。後宮の妃嬪は皆、王侯の子や孫なのに、どうして一旦にして婢を主にできるでしょうか。私は国家の福とならないことを恐れます」
昭武帝は諫言を受けて大いに怒り、中常侍・宣懐を使って太子・劉粲にこう告げた。
「王鑒らの小子は狂言侮慢した(狂言を発して皇帝を侮った)。君臣における上下の礼がなくなっているので、速やかに追究せよ」
王鑒らは逮捕されて市に送られ、皆、斬られた。
金紫光禄大夫・王延が車馬を馳せて、宮中に入って諫言しようとしたが、門者(門衛)が通しませんでした。
王鑒らが刑に臨むと、王沈が杖で叩いて言った。
「庸奴よ、まだ悪が為せるか。我が家の事が汝に何の関係があるのだ」
王鑒は目を見開いて叱責した。
「豎子よ、大漢を滅ぼすのは、正に汝のような鼠らと靳準が原因になるだろう。先帝に汝の事を訴えて、地下で汝を捕えて裁かなければならない」
靳準が王鑒に言った。
「私は詔を受けて汝を捕えたのだ。どのような不善があって、汝は漢の滅ぶ原因が私にあるというのだ」
王鑒が言った。
「汝は皇太弟(劉乂)を殺して主上に不友の名(友愛ではないという悪名)を獲させた。国家が汝のような者を畜養しているのに、なぜ滅びずにいられようか」
崔懿之も靳準に言った。
「汝の心は梟鏡(「梟」はフクロウで、母を食べる悪鳥とみなされていた。「鏡」は「破鏡」という獣で、父を食べるといわれていた)のようであり、必ず国患となる。汝が人を食べたら、人もまた汝を食べるであろうよ」
彼らが斬られた後、昭武帝は後に宣懐の養女も中皇后に立てた。
漢趙の忠臣たちが斬られていく中、華北で奮闘していた晋の使持節・侍中・都督・太尉・并州刺史・広武侯・劉琨が殺害されていた。




