表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第三章 闘争

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

92/226

東晋の成立

大変、遅くなりました。

 318年


 この年、遼西公・段疾陸眷だんしつりくけんが死んだ。


 その子はまだ幼なかったため、叔父の段渉復辰だんしょうふくしんが自ら立った。


 段匹磾だんひつていが薊から赴いて喪に駆けつけたが、段末柸だんまつはが、


「匹磾が来たのは爵位を簒奪したいからだ」


 と宣言したため、段匹磾が右北平に至った時、段渉復辰は兵を発して拒んだ。


 ところが、段末柸が虚に乗じて段渉復辰を襲い、段渉復辰とその子弟や党与を併せて殺してした。段末柸が自ら単于を称し、段匹磾を迎撃して敗った。


 段匹磾は走って薊に還っていった。

 












 三月、西晋の愍帝の訃報が建康に至った。


 晋王・司馬睿しばえいは斬縗(喪服の一種)を着て廬(倚廬。喪中に住む部屋)に住んだ。


 百官が司馬睿に対して帝号を称すように請うたが、司馬睿は同意しようとしなかった。


 そこで紀瞻きせんが言った。


「晋の皇統が絶えてから、今で二年になるので、陛下は大業を継承するべきです。宗室を眺め見たところ、誰にまた譲ることができるでしょうか。もし光が大位に登ったら、神と民に頼る場所ができます。もし天時に逆らって人事に違え、大勢がひとたび去ってしまったら、戻れなくなってしまいます。今は両都が焼毀して宗廟に主がなく、劉聡りゅうそうが西北で僭号しているのに、陛下はまさに東南で謙譲しています。これは揖礼謙譲しながら火消しをするというものです」


 しかし司馬睿はやはり同意せず、殿中将軍・韓績かんせきに命じて玉座を撤去させた。


 すると紀瞻が韓績を叱責して、


「帝坐とは、上は列星に応じているものだ。敢えて動かす者は斬る」


 と言った。


 司馬睿はこのために顔色を変えつつ、帝位に即位することを考え始めた。


 そんな中、奉朝請・周嵩しゅうすうが司馬睿の即位に反対して上書した。


「古の王とは、義が完全になってからその地位を取り、謙譲が完成してからその地位を得たので、世を享受して長久になり、盛徳が万年にも及んだのです。今は梓宮(皇帝の棺。懐帝と愍帝の遺体を指す)がまだ返らず、旧京がまだ清められず、義夫が泣血して、士女が不安な様子としています。善謀良計の道を開いて招き、士卒を訓練して兵器を磨き、まずは社稷の大恥を雪いで四海の心に副うべきです。そうすれば、帝位が安静になるでしょう」


 帝位に着く前に河北を取り戻すべきであるという意見である。


 しかしながら帝位に着くことを考え始めていた司馬睿にとって周嵩の上書は意旨に逆らうものだったため、中央から出されて新安太守に任命し、その後、更に怨望の罪に坐して刑を受けさせた。


 因みに周嵩は周顗しゅうぎの弟である。


 司馬睿が令を発した。


「私は不徳によって厄運の極(困難な時運の極み)に当たり、まだ臣節を立てることができず、救済も挙げることができず、そのため朝から夜まで寝食すら忘れている。今、宗廟が廃絶して、万民には頼る所がないので、百官や諸官の長が皆、私を励まして大政を行うように勧めている。どうしてまた辞退できるだろう。よって、皆が堅持している意見に謹んで従うことにする」


 この日、司馬睿が皇帝の位に即き、百官が皆、参列した。


 この司馬睿を東晋の元帝という。彼こそ東晋の初代皇帝である。


 元帝が詔を発した。


「昔、我が高祖・宣皇帝が大いに期運に応じて、広く皇国の基礎を開いた。景・文皇帝は二世にわたって光を重ね、中華に光明を与えた。世祖(武帝)まで至ると、天に応じて時に順じ、その明命を受け入れて、功が天地に達し、仁が宇宙に行き渡った。ところが昊天(偉大な天)が明亮ではなくなり、この鞠凶(大きな災禍)を降したため、懐帝はその世が短く、王都から遠くに去ることになった。天禍が繰り返して至り、大行皇帝(死んだばかりで諡号が決まっていない皇帝。ここでは愍帝を指す)が崩御して、社稷を奉じる者がいなくなってしまった。ここにおいて、公卿・三公・六軍の長が百官に意見を求め、華戎(漢族と異民族)に至るまで、大命を朕の身に集めさせた。予一人(私。天子の自称)は天の威を畏れるので、敢えて違えるわけにはいかない。よって、壇に登って南面し、祖廟で先代の世を継承し、焚柴(柴を焼いて天を祭る儀式)して瑞(符瑞、符命)を頒布し、上帝に告類(報告の祭祀)する。思うに朕は寡徳なので、先祖の大業を継ぐのは、大川を渡るようなものであり、どのようにして乗り越えればいいのか分からない。汝ら、股肱爪牙の佐、文武熊羆の臣は、皆、晋室を助けて安寧にすることができ、余一人(私)を輔佐することができる。万国と共に嘉慶を共有することを思っている」


 元帝が王導おうどうに命じ、御座に登って共に坐らせようとした。


 しかし王導は固辞してこう言った。


「もし太陽が下にあって万物と同じだったら、蒼生(生命がある物)はどうして光を仰ぐことができるのでしょうか」


 元帝は命を取り下げた。


 大赦して建武二年から太興元年(「太興」は「大興」とも書く)に改元し、文武諸官の位を二等増やした。


 諸吏で刺(意見と姓名が書かれた名刺のようなもの)を投じて勧進した者には位を一等加え、民で刺を投じた者は全て官吏に任命しようとした。対象となるものは合わせて二十余万人に上った。


 これに散騎常侍・熊遠ゆうえんが言った。


「陛下は天に応じて皇統を継いだので、全土が帰心して、奉戴しております。どうして近い者(刺を投じることができた者)の情だけが重く、遠い者の情は軽いということがあるのでしょうか。漢法に倣って、遍く天下に爵位を下賜するべきです」


 漢は恵帝が即位してから民に爵位一級を与え、官秩がある者には歳数(仕官した年数)によって差を設けた。その後の諸帝も即位したら民に爵位一級を下賜した。


「こうすれば、恩恵が普遍的なものになり、しかも検覈の煩(調査・審理といった煩わしい作業)を除いて巧偽の端(官民が虚偽を為すきっかけ)を塞ぐことができます」


 しかしながら元帝はこの意見に従わなかった。


 その後、王太子・司馬紹しばしょうを皇太子に立てた。


 司馬紹は仁孝で、文辞を好み、武芸を善くし、賢才を好んで士人を礼遇し、忠告・諫言を聴き入れることができ、庾亮ゆりょう温嶠おんきょうらと布衣の交(平民同士のような身分にこだわらない対等な交わり)を結んだ。


 庾亮は字を元規といい、風格が厳粛で、善く老荘思想を論じた。そのため人々は夏侯玄や陳羣に準えたという。元帝はそんな彼の器重して庾亮の妹を太子妃に招いた。


 元帝は賀循がじゅんを行太子太傅に、周顗しゅうがいを少傅に任命し、庾亮に中書郎の身分で東宮(太子宮)で侍講(皇帝や太子に侍って講義を受けること)させた。


 元帝は刑名家(法家)を好んだため、『韓非』の書を司馬紹に下賜した。


 しかし庾亮が司馬紹を諫めた。


「申・韓(申不害と韓非子。法家の説)は刻薄で教化を傷つけるので、聖心に留めるには足りません」


 司馬紹は庾亮の意見に従った。


 元帝が再び使者を派遣して慕容廆ぼようかいに龍驤将軍・大単于・昌黎公の官爵を授けたが、慕容廆は公爵を辞退して受け入れなかった。。


 胡三省は、


「慕容廆が公爵を辞退して受け入れなかったのは、外見は謙譲を為しているが、実際は昌黎で欝鬱としているつもりがなかったからだ」


 と、述べている。


 慕容廆は游邃ゆうすいを龍驤長史に、劉翔りゅうしょうを主薄に任命し、游邃に命じて官府の儀礼・法度を創定させた。


 裴嶷はいぎょくが慕容廆に進言した。


「晋室は衰微して江表で孤立しており、威徳を遠くに及ぼすことができないので、中原の乱はあなた様でなければ救済できません。今、諸部がそれぞれ兵を擁していますが、皆、頑迷愚劣な者が集まっているだけなので、徐々にこれらを兼併し、そうすることで西討の資(遼東から中原に進出する資本)とするべきです」


 慕容廆が言った。


「あなたの言は大きいので、私が及ぶところではない。しかしあなたは中原の名徳(名声・徳行の人)でありながら(裴嶷は晋の昌黎太守となり、名が知られていた)、私を僻陋(辺境の劣った者)とみなさずに教導してくれた。これは天があなたを私に下賜してこの国を助けさせたのだろう」


 慕容廆は裴嶷を長史に任命して軍国の謀を委ねた。この後、諸部の弱小な者は慕容廆によって徐々に撃ち取られていった。


 




 晋の李矩りく郭黙かくもく郭誦かくしょう趙固ちょうこを救わせた。郭黙らは洛汭(洛水が黄河に入る場所)に駐屯した。


 郭誦が秘かにその将・耿稚こうちらを派遣し、夜、黄河を渡って漢趙の営を襲わせた。


 漢趙の具丘王・劉翼光りゅうよくこうが偵察してそれを知ったので、太子・劉粲りゅうさんに報告して備えを為すように請うたが、劉粲はこう言った。


「李矩は趙固が敗れたと聞いて、自分を守る余裕もない。どうして敢えてここに来られようか。将士を驚動させるようなことはしてはならない」


 ところが、突然、耿稚らが至り、十道から進攻した。劉粲の軍は驚いて崩壊し、死傷者が太半に上った。劉粲は逃走して陽郷を守った。


 耿稚らは劉粲の営を占拠し、数え切れないほどの武器・軍資を獲得した。


 朝になって、劉粲は耿稚らの兵が少ないのを見たため、改めて劉雅生りゅうがせいと共に兵を集め、攻撃を開始した。


 漢趙の昭武帝・劉聡りゅうそうも太尉・范隆はんりょうを派遣し、騎兵を率いて救援させた。


 しかし、劉粲らは耿稚らと対峙して二十余日も苦戦し、これを下すことができなかった。


 その間に李矩が兵を進めて耿稚らの救援に向かったが、漢趙の兵が河に臨んで抵抗したため、渡河できなかった。


 ここまで耐えてきた耿稚らは獲得した牛馬を殺し、軍資を焼き、包囲を突破して虎牢に奔った。


 東晋は詔によって李矩を都督河南三郡諸軍事に任命した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 紀瞻は易経に通じていた人ですし、彼の言葉は元帝に何度も諫言して受け入れられましたが、中華民族のみのあらそいではない乱世の中では、旧態依然なものだったかもしれませんね、高く評価されてる人ではあ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ