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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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西晋の愍帝

 晋の征南軍司・戴邈たいぱくが上書してこう主張した。


「喪乱以来、庠序(学校)が荒廃しています。議者には、太平の世は文を貴び、乱に遭ったら武を貴ぶと言っている者がおり、この言は正しいようにも聞こえますが、実はそうではありません。儒道とは深奥なものですので、短時間で完成させることはできません。天下が太平になってからそれを修めようとしても、廃頽して既に久しくなっています。また、貴遊の子(特定の官職をもたない王侯貴族の子弟)に斬将搴旗の才(敵将を斬って敵陣の旗を抜く能力)があるとは限りません。それなのに征戍の役(遠征や守備等の兵役)に従軍させて、盛年に乗じて道義を講習させようとしないのは、誠に惜しいことです。世道が久しく喪われて、礼俗が日々衰落しているのに、火が脂を溶かしている時のように、それに気づいていません。今は王業が建てられたばかりで、万物が萌芽したところなので、思うに、道を篤くして儒を崇めることで教化を奨励なさるべきです」


 晋王・司馬睿しばえいはこれに従い、史官を置いて太学を建てた。


 








 漢趙の昭武帝・劉聡りゅうそうが狩りに出た。その際、西晋の愍帝・司馬鄴しばぎょうを行車騎将軍(車騎将軍代理)に任命し、軍服を着て戟を持たせ、自分を先導させた。


 その様子を見た者が指さして、


「彼はかつての長安の天子だ」


 と、言った。人々が集まって観望し、老人たちの中にはすすり泣いて涙を流す者もいたという。


 昭武帝がそのことを知ると嫌そうな顔をした。すると太子・劉粲りゅうさんがこう言った。


「昔、周の武王は喜んで紂を殺したのでしょうか。そうではありません。まさに紂が悪人と助けあって患いを為すことを恐れたのです。今、兵を興して兵を集めている者は、皆、子業(愍帝の字)を名分としています。早く彼を除くべきです」


 しかし昭武帝はこう応えた。


「私は以前、庾珉らを殺したが、民心はこのように晋を想っている。私にはこれ以上殺すのは忍びない。とりあえず少し様子を観よう」


 十二月、昭武帝が光極殿で大宴を開いて群臣をもてなし、それを機に、愍帝に酒を注がせたり杯を洗わせた。暫くして昭武帝が更衣(着替え。厠に行くことを意味する)に行くと、愍帝に蓋を持たせた。席にいたかつての晋臣の多くが涙を流して泣き、声を漏らす者もいた。


 その中の尚書郎・隴西の人・辛賓しんぴんに至っては立ち上がり、愍帝を抱きかかえるとその場で慟哭した。


 それを見た昭武帝は辛賓を引き出して斬るように命じた。


(晋への想いが残っている者は未だ多い……)


 彼はそう思った。


 この頃、漢趙から晋に帰順して洛陽を守っている趙固ちょうこが河内太守・郭黙かくもくと共に漢趙の河東を侵し、絳に至った。


 それを知った右司隸部の民は趙固らに帰順しに行った。その数は三万余人に上った。


 しかしそこに漢趙の騎兵将軍・劉勲りゅうくんが追撃して一万余人を殺したため、趙固と郭黙は引き返した。


 太子・劉粲が将軍・劉雅りゅうがらと歩騎十万を率いて小平津に駐屯すると、趙固は公言してこう言った。


「劉粲を生捕りにして天子に償おう」


 そのことを知った劉粲が昭武帝に上表した。


「子業が死ねば、民が希望とするところがなくなり、そうなれば李矩りくや趙固に利用されることもなくなるので、趙固らは攻撃しなくても自滅することでしょう」


 この上表により、昭武帝は愍帝の処刑を決め、平陽で処刑した。享年・十八歳という若さであった。


 劉粲が劉雅を派遣して洛陽を攻撃させ、趙固は陽城山に奔った。


 


 









 この頃、河南王・慕容吐谷渾ぼようとよくこんが死んだ。


 吐谷渾は慕容廆ぼようかいの庶兄で、かつて、父の慕容渉帰が千七百戸を分けて吐谷渾に属させた人物である。


 慕容廆が位を継いでから、慕容廆と吐谷渾の馬が闘ったため、慕容廆が使者を派遣して吐谷渾を譴責し、こう言った。


「父があなたを分建して別々にしたのに、なぜ遠くに離れることなく、馬に闘わせて傷を負わせたのだ」


 すると吐谷渾が怒ってこう言った。


「馬は六畜(馬・牛・羊・犬・豚・鶏)であり、闘うのはその常ではないか。怒りを人に及ぼす必要があるのか。遠くに離れさせたいと欲するのは甚だ容易だが、恐らく後に難となるであろう。今、汝から去って万里の外に行くことにしよう」


 こうして吐谷渾はその衆を率いて西に遷った。


 慕容廆は後悔して長史・乙郍婁馮を派遣し、後を追わせて謝罪した。


 しかし吐谷渾はこう言った。


「父はかつて卜筮の言を称えてこう言ったものだ。『我が二子は、皆、強盛となり、祚(福。国君の地位)を後世に伝えるであろう』と、私は庶子だ。理において、嫡子と並んで大きくなることはない。今、馬が原因で別れるのは、天意と言えるのではないか?」


 吐谷渾は還ることなく西に進み、陰山に接して居住した。


 永嘉の乱の時、吐谷渾はそれを機に隴を越えて西に向かい、洮水の西を占拠した。吐谷渾の領地は白蘭にまで至り、方数千里になった。


 そこで勢力を築いていた吐谷渾がこの年、死んだことを知った慕容廆は兄・吐谷渾を追念して『阿干之歌』を作った。


 因みに鮮卑の言葉では「兄」を「阿干」と言う。彼の作った『阿干之歌』は後に子孫たちによって国歌となったという。


 吐谷渾には六十人の子がおり、死後、長子の吐延が継いだ。


 吐延は長大で勇力があったため、羌・胡が皆畏れら。吐延以後の子孫は「吐谷渾」を部族名にし、唐まで続くことになる。


 

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