周訪
漢趙の昭武帝・劉聡が晋王・劉粲を皇太子に立てた。相国を兼任させて、大単于とし、今まで通り朝政を統括させた。
そんな中、段匹磾が劉琨を大都督に推した。兄の遼西公・段疾陸眷および叔父の段渉復辰、弟の段末柸らに檄文を送って固安で会し、共に石勒を討とうとした。
しかし末柸が疾陸眷と渉復辰に説いてこう言った。
「父兄でありながら子弟に従うのは恥です。そもそも、幸い功があったとしても、匹磾が独りでそれを収めるので、我々には何がありましょうか」
段疾陸眷らはそれぞれ兵を率いて還ってしまった。
劉琨と段匹磾も単独で留まることはできないため、薊に還った。
漢趙の趙固が臨潁で衛将軍・華薈を襲って殺した。
そんな趙固と長史・周振には間隙があったため、これ以前に、周振が昭武帝に対して秘かに趙固を讒言していた。
晋の李矩が劉暢を破った時、李矩が劉暢の帳中で昭武帝の詔を得た。その内容は、劉暢が李矩に克ったら帰還して洛陽を通り、趙固を捕えて斬り、周振を趙固の代わりとするように命じるものであった。
李矩が昭武帝の詔を趙固に送って示したため、趙固は周振父子を斬り、騎兵千人を率いて晋に来降した。
李矩は改めて趙固に洛陽を守らせた。
晋の鄭攀らが共に新任の荊州刺史・王廙を拒んでいたが、衆心が一つではなかったため、離散して横桑口に還り、杜曾を頼ろうとした。
因みに横桑口について胡三省がこのような解説を行っている。
沔水が東南に流れて江夏雲杜県を通り、東に流れて左桑を通る。そこは実は西周の昭王が溺死した場所で、その地域の村老が言うには百姓がこの地で昭王の喪事を助けたため、「佐桑」と呼ばれ、後に「左桑」と書かれるようになり、その沔水は更に東に流れると「横桑」に至る。「横桑」は昭王が埋葬された地だと言われている。
閑話休題
鄭攀の動きに対して、王敦が武昌太守・趙誘と襄陽太守・朱軌を派遣して鄭攀を撃たせたため、鄭攀らは懼れて投降を請うた。
杜曾も襄陽で第五猗を撃って贖罪とすることを請うた。
王廙は荊州に赴く時、長史・劉浚を留めて揚口塁を鎮守させた。
竟陵内史・朱伺が王廙に言った。
「杜曾は猾賊です。外に屈服を示したのは、官軍を誘って西に行かせ、その後、昼夜兼行して揚口を襲おうと欲しているからです。大いに兵を配置するべきであり、まだすぐ西に向かってはなりません」
しかしながら王廙という人は性格が激しく、己に自信をもっていた。そのため朱伺を老齢な臆病者とみなして西に進んだ。
果たして杜曾らは引き還して揚口に向かった。
王廙は朱伺を派遣して帰らせたが、朱伺が営塁に到着したばかりの時には既に杜曾によって包囲された。
劉浚は自ら北門を守り、朱伺に南門を守らせた。
馬雋が杜曾に従って営塁を攻めた。馬雋は元々鄭攀と共に王廙を拒んでいた人物である。その馬雋の妻子はこれ以前から塁中に居たため、ある者が妻子の顔の皮を剥いで馬雋に見せようとしたが、朱伺が、
「彼の妻子を殺しても包囲を解くことはできず、ただその怒りを増やすだけだ」
と言ったので、止めた。
杜曾が北門を攻めて攻略した。朱伺は傷を負ったが、退いて船に入り、船底を開いて脱出して、水中に潜ったまま五十歩進み、逃れることができた。
その後、杜曾が人を送って朱伺に説いた。
「馬雋は汝が妻子を守ったことを感謝している。今、汝の家の内外百口を全て馬雋に付けたところ、馬雋は心を尽くして保護している。汝もこちらに来るべきだ」
しかし朱伺はこう答えた。
「私は年が六十余になった。今更、貴様と共に賊になることはできない。私は死ぬとしてもやはり南に帰る。妻子をどうするかは汝が決めればいい」
朱伺は甑山にいる王廙に帰したが、怪我のため死んだ。立派な人であった。
趙誘、朱軌および陵江将軍・黄峻が女観湖で杜曾と戦ったが、趙誘らは皆、敗死した。杜曾が勝ちに乗じて直接、沔口に向かい、威が長江・沔水一帯を震わせた。
晋王・司馬睿はこの事態に対して、豫章太守・周訪に杜曾を撃たせることにした。
周訪は八千の兵を擁して進軍し、沌陽に到った。
杜曾は鋭気が甚だ盛んであった。
周訪は将軍・李恆に左翼を督させ、許朝に右翼を督させ、周訪自ら中軍を統領した。
杜曾はまず左・右翼を攻めたが、周訪は陣の後ろで平然と雉を射るなど狩りをする姿を見せて。衆心を安定させると兵たちにこう命じた。
「一翼が敗れたら三鼓を鳴らせ。両翼が敗れたら六鼓を鳴らせ」
趙誘の子・趙胤が父の余兵を率いて左翼に属しており、力戦したが、敗れたため再び兵を集め、馬を駆けさせて周訪に報告した。
「貴様は父の敵が目の前にいると言うのに、さっさと退くとはどういうことか」
周訪は怒って叱咤し、改めて進むように命じた。趙胤は号哭して戦に戻っていった。戦いは朝から申(午後三時から五時)に及び、ついに両翼とも敗れた。
それを見た周訪は精鋭八百人を選び、自ら酒を注いで彼らに飲ませ、妄りに動いてはならず、鼓声を聞いてから進むように命じた。
杜曾の兵が三十歩にも満たない場所まで来ると、周訪は自分で戦鼓を敲き、将士が皆、躍り出て杜曾軍に向かった。杜曾軍は大いに崩壊し、千余人が殺された。
周訪が夜の間に追撃しようとした。諸将が翌日になるのを待つように請うたが、周訪はこう言った。
「杜曾は驍勇で戦が上手い。先ほどは彼が疲労していて我々は安逸としていたので克てたのだ。彼が衰えた時に乗じるべきであり、そうすれば滅ぼすことができる」
こうして戦鼓を敲きながら進軍し、ついに漢・沔を平定した。
杜曾は敗走して武当を守った。
こうして王廙がやっと荊州に入ることができた。周訪は功績によって梁州刺史に遷り、襄陽に駐屯した。




