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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
序章 晋王朝の傾き

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崩御と繰り返される直言

 290年


 尚書左僕射・王渾おうこんを司徒に、司空・衛瓘えいかんを太保にした。この人事にはある事情がある。司空には石鑒せきかんがなった。


 楊駿ようしゅんは衛瓘を嫌っており、政府から追い出したいと思っていた。


 衛瓘の子・衛宣えいせんは繁昌公主を娶っていた。衛宣は出来の良い人物ではなく、酒好きで過失が多かった。そのため楊駿は黄門と謀って共に衛宣を誹謗し、西晋の武帝・司馬炎しばえんに衛宣から公主を奪うように勧めた。


 衛瓘は慚愧して恐れ入り、老齢を理由に引退しようとした。


 そこで武帝は詔を発して衛瓘の位を太保に進め、公の身分で家に帰らせることにした。


 引退を望んでいる衛瓘が嘆く中、劇陽康子(子爵)・魏舒ぎじょが世を去ったことを知った。


「あの者は幸せ者だ。これからの世を見る前に世を去ることができた」


 綺麗なまま世を去った彼の死を悼むと同時に羨ましく思った。


 この頃、武帝の病が篤くなっていたが、まだ遺命がなかった。


 勲功がある旧臣の多くが既に死去しており、侍中・車騎将軍・楊駿だけが禁中で武帝の病に付き添い、大臣は皆、左右にいることができない状況であった。


 楊駿はこれを機に私意によって重要な立場にいる近臣を交替させ、心腹を用いて自分の勢力を確立していった。


 ちょうど、武帝の病が少し回復した時、彼は新たに用いられている者を見て厳粛な態度で楊駿に、


「なぜこのようにするのだ」


 と言った。


 前年、豫州の都督を命じられていた汝南王・司馬亮しばりょうが出発していなかったため武帝は中書に命じて詔を作らせ、司馬亮と楊駿の二人に共同で輔政させることにした。また、朝士で声望がある者を数人選んで輔佐させようとした。


 楊駿への牽制のためである。


 しかしながら楊駿は中書から詔を借りて中を観て、詔を手に入れるとすぐに隠して去った。中書監・華廙かよくが恐懼して自ら楊駿を訪ね、詔を求めたが、楊駿は最後まで与えなかった。


 ちょうど武帝がまた迷乱したため、楊皇后が楊駿に輔政させることを上奏した。武帝はこれに頷いた。


 四月、皇后が華廙および中書令・何劭かしょうを召し、口頭で武帝の意旨を宣言して詔を作らせた。楊駿を太尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録尚書事にするという内容である。


 詔が完成すると、皇后は華廙と何劭の面前で武帝に提出した。武帝はそれを視ても何も言わなかった。もはや彼に政治を担えるだけの状態ではなくなっていたのである。


 因みに華廙は華歆の孫で、何劭は何曾の息子である。胡三省はこう述べている。


「華歆は漢・魏の間に仕え、何曾は魏・晋の間に仕え、位はどちらも公に至った。二人の身名(身分と名声)は似たようなものである」


 こうして侍中・車騎将軍・楊駿が太尉・都督中外諸軍・録尚書事となり、軍政と内政を掌管することになった。


 楊皇后は汝南王・司馬亮を催促して許昌に赴かせるように命じた。


 間もなくして武帝の容態が少し回復し、


「汝南王は来たか?」


 と問うたが、左右の者は、


「まだ至っていません」


 と答えると、武帝はついに危篤に陥った。武帝が含章殿で死んだ。享年・五十五歳で、廟号は世祖である。


 武帝は度量が大きく、明達で謀を好み、直言を受け入れて、人前で厳粛な態度を失うことはなかったという。しかしながら群臣たちに対して厳しくできず、天下統一を成し遂げた時点で政治への興味を失い、この後の戦乱を種を作ったのは彼である。


 乱世においては良君であったが、治世の良君にはなれなかった。

















 太子・司馬衷しばちゅうが皇帝の位に即いた。これを西晋の恵帝という。


 大赦して永熙元年に改元した。本年正月に武帝は太熙元年に改元し、今回、恵帝が即位してまた永熙に改元した。胡三省このことに、


「新帝が即位してから年を越えずに改元するのは非礼である」


 と苦言を呈している。


 皇后・楊氏を尊んで皇太后とし、太子妃・賈南風かなんふう(賈充の娘)を皇后に立てた。


 楊駿が太極殿に入って住んだ。


 梓宮(皇帝の棺)が殯す時、六宮(後宮の妃妾)が出て来て別れを告げたが、楊駿は殿から下りず、虎賁(勇士)百人に自分を護衛させた。


「殯」は埋葬前の一定期間、棺を安置することである。


 恵帝が詔を発し、石鑒と中護軍・張劭ちょうしょうに山陵の造営を監督させた。


 汝南王・司馬亮は楊駿を畏れていたため、敢えて喪に臨むことができず、大司馬門外で哭した。


「大司馬門外」は大司馬府の門外である。司馬亮は大司馬として許昌に行くはずであったが、まだ出発せず、大司馬府にいた。胡三省は、


「君父の喪において門外で哭すのは非礼である」


 と述べている。


 司馬亮は城外に出て営を構え、上表して葬儀が終わってから出発する許可を求めた。


 ところが、ある人が楊駿に、


「司馬亮は兵を挙げて楊駿を討とうと欲している」


 と告発した。楊駿は大いに懼れて太后に報告し、恵帝に直筆の詔を作らせてそれを石鑒と張劭に与え、二人に陵墓を建設している兵を率いて司馬亮を討伐するように命じた。


 張劭は楊駿の甥(姉妹の子)に当たるため、すぐ統領している兵を指揮して、石鑒に速やかに出発するよう催促した。しかし石鑒はそのような事はないと判断して兵を統率したまま留まった。


 司馬亮が廷尉・何勗かきょくに計を問うと、何勗はこう答えた。


「今、調停は皆、あなた様に帰心しております。それなのにあなた様は人を討つことなく、逆に人に討たれることを畏れるのですか?」


 今、挙兵すれば政権を得ることができるということである。しかし、司馬亮は兵を起こすことができず、夜の間に馳せて許昌に向かい、禍から免れた。


 楊駿の弟・楊済ようざいおよび甥の河南尹・李斌りひんが楊駿に対して司馬亮を留めるように勧めたが、楊駿は従わなかった。


 楊済が尚書左丞・傅咸ふかんに言った。


「家兄(楊駿)がもし大司馬(司馬亮)を召して、自分の身を退いて彼を避ければ、あるいは門戸を保つこともできるでしょう」


 傅咸はこう言った。


「宗室と外戚が互いに頼りあえば安定するものです。ただ大司馬を召して戻らせ、共に公正を重視して輔政すれば、彼を避ける必要もありません」


 ただただ互いに助け合おうという姿勢こそが大切なのである。


 楊済は改めて侍中・石崇せきすうを派遣し、楊駿に会って進言させたが、楊駿はやはり従わなかった。


 楊駿はかねてから自分に美望(美しい名望)がないことを知っていたため、魏の明帝が即位した時の故事に倣って、広く官位を進めて爵位を与えることで、人々に媚びて歓心を得ようと欲した。


 左軍将軍・傅祗(魏後期の重臣・傅嘏の子)が楊駿に書を送った。


「帝王が崩じたばかりなのに臣下が功を論じたというようなことは、未だに有ったことがありません」


 楊駿は諫言に従わなかった。


 楊駿の意図が反映された詔がなされ、中外の群臣全てに位一等を増やし、喪事に関与した者には二等を増やし、租調を一年間免除した。また、二千石以上は皆、関中侯に封じられた。


 石崇と散騎侍郎・何攀かはんが共に上奏した。


「帝は東宮で位を正して二十余年になり(皇太子に立てられて二十余年になり)、今、大業を継承しましたが、班賞行爵(賞賜や爵位を与えること)が、泰始革命の初め(魏から晋に禅譲したばかりの頃)および諸将による平呉の功(呉を平定した功績)よりも優っており、軽重が釣り合っていません。そもそも、大晋の卜世(占卜によって予言された国の命数)は無窮であり、今、今、新たに開かれた制度は、後世に残すべきです。もし爵がある者は必ず位が進むというのであれば、数世の後には、公侯ではない者がいなくなってしまいます」


 楊駿はやはり従わなかった。


 詔によって太尉・楊駿を太傅・大都督に任命し、黄鉞を授けて輔政させた。楊駿が朝政を総領し、百官はそれぞれ自分の職を担当して楊駿の指示を聴くことになった。


 傅咸が楊駿に言った。


「諒闇(三年の喪)が行われなくなって久しくなりますが、今、陛下は謙虚なので、政を公に委ねました。しかし天下はこれを善とみなしていません。あなた様が百官の長という地位を保てなくなるのではないかと懼れます。周公のような大聖でも、なお流言を招いたではありませんか」


 周の成王が幼かったので周公・旦が摂政したところ、「周公が簒奪を企んでいる」という噂が流れたことを指している。


「陛下の春秋(年齢)は成王の歳ではなく、摂政は必要ない年齢です。心中で思うに、山陵(武帝陵。ここでは武帝の埋葬を指す)が既に終了したので、あなた様は進退の道理を慎重に考慮なさるべきです。もしあなた様が私の誠意を察したならば、私の言葉が少なくても理解できるはずです」


 楊駿が従わなかったため、傅咸は諫言を繰り返した。すると楊駿はしだいに不満を抱き、傅咸を朝廷から出して郡守に任命したいと思うようになった。


 しかし李斌が、


「正人を駆逐したら人望を失います」


 と言ったため、中止した。


 楊済が傅咸に書を送った。


「諺はこういっています。『子を生んだら痴呆だった。官事を明らかにしてしまうような子を生んでしまった』官事とは、容易には明らかにできないものです。それなのにあなたは直言して是非を明らかにしようとしているので、憂慮して頭を痛めています。よって、こうして申し上げました」


 傅咸が返書を送った。


「衛公にこのような言があります。『酒色による害は、直言による害よりも甚だしい』ところが酒色が原因で死んでも、人はそれを悔いとせず、逆に直言によって禍を招くことを畏れています。これは心を正しくすることができず、とりあえず生きながらえることを明哲なこととみなしたいためです。古より、直言によって禍を招いた者は、他者の過失を矯正しようとして行き過ぎていたり、あるいは忠厚でなく、厳酷によって名声を為したいと欲していたので、怨恨を招いたのです。どうして悾悾(誠実な様子)・忠効が返って憎怨されることがありましょうか?」


 


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― 新着の感想 ―
[一言] はやい、もう賈南風きちゃいますか。
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