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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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勧進

 漢趙の兵が東に向かって弘農を奪ったため晋の太守・平東将軍・宋哲(そうてつ)は江東に奔った。


 逃れてきた宋哲が建康に至ると愍帝・司馬鄴(しばぎょう)の詔を受けたと称して、こう宣布した。


「時運の艱難不利に遭って朝廷の綱紀が振るわなくなった。私は寡徳をもってして大業を継承したが、天に永命を祈って帝業を継承・発揚・中興させることができず、凶胡に敢えて犬羊を率いて京師を逼迫させるに至ってしまった。私は今、窮城に幽閉されており、憂慮は万端(極めて多いこと)で、一旦にして崩潰することを恐れている。宋哲は丞相(司馬睿)を探し訪ねて、詳しく私の意を述べよ。丞相に万機を摂らせ、即時、旧都を拠点とし、陵廟を修復することで、大恥を雪がせよ」


 こうして、丞相・琅邪王・司馬睿が諸政務を統領することになった。


 三月、琅邪王・司馬睿は喪服で出次し(「出次」は正寝(正室)を避けて別室で起居することで、哀悼の意を示す)、三日間、哀哭、追悼した。


 この時、西陽王・司馬羕(しばきょう)(汝南王・司馬亮の子)および群僚・参佐といった官属や州征(各州を守る将領)・牧守(州郡の長)らが共に帝号を送ったが、司馬睿は同意しなかった。


 それでも司馬羕らが命を懸けて頑なに請い、再三に及んで止まないため、司馬睿は憤慨して涙を流し、こう言った。


「私は罪人である。ただ節を守って義のために死ぬことで、天下の恥を雪ぎ、鈇鉞の誅(死刑。「鈇鉞」は刑具)を贖いたいと願うだけだ。私は本来、琅邪王なので、諸賢が私に迫って止まないようならば、琅邪に帰るだけだ」


 司馬睿は私奴(私的に養っている奴隷。罪を犯して身を落とした「官奴」と区別する名称)を呼び、車を準備させて帰国しようとした。


 司馬羕らの群臣は敢えて逼ることができなくなったため、魏・晋の故事に倣って晋王を称すように請うた。


 司馬睿はやっと同意した。


 司馬睿が晋王の位に即いて大赦し、建興五年から建武元年に改元した。但し、祖父母や父母を殺した者および劉聡(りゅうそう)と石勒(せきろく)は大赦令から外された。


 諸参軍を全て奉車都尉に、掾属を駙馬都尉に、行参軍舍人を騎都尉に任命した。その後、掾属百余人を招聘した。時の人はこれを「百六掾」と呼んだという。


 こうして初めて百官を備え、建康に宗廟を造って社稷を建てた。


 この時、四方が競って符瑞を献上したが、晋王・司馬睿は、


「私は四海の譴責を負いながら、まだ過ちを反省できていない。なぜ徵祥(吉祥、符瑞)があるというのか」


 と、言った。


 官員が太子を立てるように請うた。


 晋王・司馬睿は次子の宣城公・司馬裒(しばほう)を愛していたため、太子に立てたいと思い、王導(おうどう)に、


「子を立てるには徳をもってするべきだろう」


 と言った。しかしこれに王導はこう言った。


「世子とは宣城と共に高雅俊秀の美があり、しかも世子が年長です」


 司馬睿は王導の意見に従い、世子・司馬紹(しばしょう)を王太子に立て、司馬裒を琅邪王に封じて恭王(司馬睿の父・司馬覲)の後を奉じさせた。司馬睿が晋の大宗(帝室)を継承したので、司馬裒に琅邪王国を継がせたのである。


 更に司馬裒を都督青徐兗三州諸軍事に任命して広陵を鎮守させ、撫軍大将軍・西陽王・司馬羕(しばきょう)を太保に任命し、譙剛王・司馬遜の子・司馬承(しばしょう)(司馬氶)を譙王に封じた。


 征南大将軍・漢安侯・王敦(おうとん)を大将軍・江州牧に、右将軍・揚州刺史・王導を驃騎将軍・都督中外諸軍事・領中書監・録尚書事に、丞相左長史・刁協(ちょうきょう)を尚書左僕射に、右長史・周顗(しゅうがい)を吏部尚書に、軍諮祭酒・賀循(がじゅん)を中書令に、右司馬・戴淵(たいえん)と王邃(おうすい)を尚書に、司直・劉隗(りゅうかい)を御史中丞に、行参軍・劉超(りゅうちょう)を中書舍人に、参軍事・孔愉(こうゆ)を長兼中書郎(「長兼」は非正式な任命を意味する)にした。


 王敦は州牧の官を辞退し、王導も王敦が六州を統領していたため、中外都督を辞退した。賀循も老病を理由に中書令を辞退した。


 司馬睿はこれらを全て許可し、賀循を太常に任命した。


 当時の江東(東晋)は喪乱の後を受け継いだばかりで、創建の時であった。刁協は久しく中朝(西晋の朝廷)に仕えて旧事に習熟しており、賀循は当世の儒宗(儒者の宗主)として礼学に精通していたため、疑議があったらいつも彼らが裁決した。












 劉琨(りゅうこん)と段匹磾(だんひつてい)が互いに歃血(犠牲の血をすすること。会盟の儀式)して同盟を結び、晋室を奉戴することを約束した。


 三月、劉琨が檄文を発して晋を援けることを華・夷に告げた。同時に、劉琨は兼左長史・右司馬・温嶠(おんきょう)を、段匹磾は左長史・榮卲(えいしょう)を派遣し、上奏文と盟文を奉じて建康を訪ねさせ、晋王に勧進した。


 因みに「勧進」とは、即位を勧めることである。


 ここで使者として派遣された温嶠につて説明する。


 温嶠は温恢の曽孫、温羨(おんせん)の弟の子で、字は太真、または泰真という。温嶠の従母(母の姉妹)は劉琨の妻である。


 幼少の頃より博学にして容姿談論に優れ、十七歳にして州群の辟召を受けたがこれには就かず、司隷校尉の都官従事となった。この時に当時太傅であった庾敳の斂財を恐れずに弾劾したことで、名を上げた。庾敳は彼のことを大器であると賞賛したという。その後、東閤祭酒、補上党県令となり、 劉琨に仕えて石勒らと戦ってきた。


 温嶠が出発する際、劉琨がこう言った。


「晋の国運は衰えたとはいえ、天命はまだ改まっていない。私は黄河以北で功を立てる。汝には、江南で名声を揚げさせることにしよう。さあ行け、努力せよ」













 司馬睿が鮮卑大都督・慕容廆(ぼようかい)を都督遼左雑夷流民諸軍事(「遼左」は遼東で、「流民」は中州(中原)から遼東に移住した民のこと)・龍驤将軍・大単于・昌黎公にしようとしたが、慕容廆は受け入れなかった。


 すると征虜将軍・魯昌(ろしょう)が慕容廆を説得した。


「今は両京が覆没して天子が流亡しており、琅邪王が江東で承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)して四海が帰属するところとなっています。あなた様は一方で雄拠(武威によって割拠すること)していますが、諸部がまだ兵を擁したまま帰服しないのは、恐らく官位が王命によるものではないからです。思うに、琅邪と使者を通じさせて、大統を継承するように勧めるべきであり、その後、詔令を奉じて罪がある者を伐てば、誰が敢えて従わないことがありましょうか」


 処士・遼東の人・高詡(こうく)もこう言った。


「覇王の資(資質、資本)とは、義がなければ成就しません。今、晋室は微弱になったとはいえ、なお人心が帰附しております。使者を江東に派遣して尊ぶ者(共通の主)がいることを示すべきです。その後、大義を打ち立てて諸部を征伐すれば、辞(正当な理由)がないことを患いる必要はありません」


 慕容廆はこれらの意見に従い、長史・王済(おうさい)を派遣して、海路から建康を訪ねて勧進させた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 東晋の足音が近づいてきましたかね。
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