并州
石勒が坫城で楽平太守・韓據を包囲した。
韓據は司空・劉琨(劉琨は前年、司空の位を辞退したが、後に受け入れた)に救援を請うた。
劉琨は拓跋猗盧の衆を得たばかりだったため、その鋭気を利用して石勒を討伐しようと考えた。
これに箕澹と衛雄が諫めた。
「彼ら(劉琨に帰順した兵)は確かに晋民ではありますが、久しく身を落としていたので、まだあなた様の恩信に馴染んでいません。恐らく用いるのは困難です。とりあえず、内は鮮卑の余った穀物を集め、外は漢趙の牛羊を奪い取り、関を閉じて険阻な地を守り、農業に務めて兵を休め、彼らが教化に服して義を感じるのを待ってから、用いるべきです。そうすれば、功が成らないはずがありません」
まだ彼らの心を掴んでいない。そんな兵を用いて戦っても勝つのは難しいだろう。
しかし劉琨は諫言に従わず、全ての部衆を動員し、箕澹に歩騎二万を率いて前駆とさせた。劉琨自身も広牧に駐屯して後援となった。
石勒は箕澹が至ったと聞いて迎撃しようとした。これに、
「箕澹の士馬は精強なので、その鋭鋒には当たることができません。とりあえず、兵を率いてこれを避け、溝を深くして塁を高くすることで、その鋭を挫くべきです。そうすれば、必ず万全を獲られましょう」
という意見が出たがこれに石勒は、
「箕澹の兵は多いとはいえ、遠くから来て疲弊しており、号令も統一されていない。精強ということがあろうか。今、寇敵が至ろうとしているのに、捨てて去ることができようか。大軍が一度動いたのに、容易に途中で引き還せようか。もし箕澹が我々の退却に乗じて逼ったら、逃走・潰滅を顧慮する余裕もなくなるだろう。どうして溝を深くして塁を高くすることができるのだ。これは自滅の道である」
と言って発言した者を即座に斬ると、孔萇を前鋒都督に任命し、三軍に令を下して、
「遅れて出た者は斬る」
と宣言した。
石勒は険要な地を占拠して山上に疑兵を置き、前方に二隊の伏兵を設けた。その後、軽騎を出して箕澹と戦わせ、途中で軽騎に、勝てないふりをして退走させた。
これを見た箕澹が兵を放って追撃させ、伏兵の中に入った。
「今だ。かかれぇ」
そこを石勒が前後から挟撃し、大破した。この戦いで石勒が獲得した鎧馬は万を数えたという。
箕澹と衛雄は騎兵千余を率いて代郡に奔り、韓據は城を棄てて出奔した。
石勒の勝利は并州の地を震撼させた。
并州の司空長史・李弘はこれにより、并州を挙げて叛し、石勒に降った。
劉琨は進退の拠点を失い、為す術がなくなってしまった。そこに段匹磾から劉琨を招く書信が届いたため、劉琨は兵を率いて飛狐から薊に奔り、段匹磾を頼った。
段匹磾は劉琨に会うと甚だ親重し、婚姻関係を結んで兄弟の契りを交わした。
石勒は陽曲と楽平の民をそれぞれ襄国に遷し、守宰(郡県の長)を置いて還った。
その間、孔萇が代郡の箕澹を攻めて殺した。
孔萇らはその後、賊帥・馬厳らを攻めたが、久しく攻略できなかった。
そのうえ、司・冀・并・兗州の流民数万戸が遼西におり、相継いで故郷の者を招いたため、民は本業に励んで安居することができなくなっていた。
石勒が濮陽侯・張賓に計を問うと、張賓はこう言った。
「馬厳らは、元々あなたの深仇ではなく、流民は皆、故郷を想う心をもっています。今、孔萇らに命じて兵を整えて引き還らせ、優良な牧守を任命して、民を招いて懐柔させれば、幽・冀の賊は日を待たずに清められ、遼西の流民も相継いで至りましょう」
石勒は納得して孔萇らを呼び戻し、武遂令・李回を易北督護・兼高陽太守にした。
馬厳の士卒はかねてから李回の威徳に服していたため、多くが馬厳に叛して李回に帰順した。馬厳は懼れて逃げ出し、川に赴いて死んだ。
彼の配下は皆、投降した。
李回は拠点を易京に遷すと、李回に帰順する流民が道に連なった。喜んだ石勒は李回を弋陽子(子爵)に封じた。
また、張賓に千戸を増邑して位を前将軍に進めようとしたが、張賓は固辞して受け入れなかった。
晋の丞相・司馬睿は長安の失陥を聞くと、軍を率いて野外で露営し、その身に甲冑をまとい、檄を四方に送り、北征の日を決めた。
この時、水運が期限に遅れたため、督運令史・淳于伯を斬った。この時、淳于伯の血が柱について上に逆流し、二丈余もある柱末(柱の先端)に至ってから下に流れた。
それを観ていた者は皆、淳于伯は冤罪だったとみなした。
丞相司直・劉隗が上言した。
「淳于伯は罪が死刑に値するほどのものではありませんでした。従事中郎・周莚らの官を免じることを請います」
右将軍・王導らも上書して自分の咎を認め、職を解くように請うた。
しかし司馬睿は、
「政刑が適切ではなかったのは、全て私の愚昧がもたらしたのだ」
と言って一切を不問にした。
司馬睿は良い君主を演じているのかもしれないが、実際のところは問題を先延ばしにしただけに過ぎず、何らの問題の解決をもたらしていない。
劉隗は性格が剛訐(剛直で人の過失を許容できないこと)で、当時の名士の多くが弾劾されていた。しかし司馬睿が弾劾された名士をいつも寛恕したため、衆人の怨みは全て劉隗に集まっていた。
王敦の兄に当たる南中郎将・王含は、同族が強盛で位が顕貴だったため、驕傲放縦になっていた。一度に二十人前後の参佐や守長(郡県の長)の任命を請うたこともあり、しかも多くがその才を有していなかった。
そこで、劉隗が王含を弾劾する上奏を行い、その文章は王含の罪を暴いて甚だ厳しいものであった。
結局、この件は取り上げられなかったが、王氏は劉隗を深く嫌悪するようになっていった。
晋の丞相・司馬睿が邵続を冀州刺史に任命した。
邵続の娘壻に当たる広平の人・劉遐が黄河・済水の間で部衆を集めたため、司馬睿は劉遐を平原内史に任命した。




