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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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西晋の滅亡

 漢趙の昭武帝・劉聡りゅうそうが故張后の侍婢・樊氏を上皇后に立てた。三后(上皇后・樊氏、左皇后・劉氏、右皇后・靳氏)以外にも、皇后の璽綬を佩した者が七人いた。


 更に、寵臣が実権を握って政事を行い、刑賞が紊乱(混乱して秩序がない様子)した。


 大将軍・劉敷りゅうしきがしばしば涕泣して切諫(直言による諫言)したが、昭武帝は怒って、


「汝は己の父が速く死ぬことを欲しているのか。なぜ朝から夜まで、私が生きているのに人を哀哭しに来るのだ」


 と言った。劉敷は憂憤のため病を患って死んでしまった。


 そんな中、河東郡や平陽郡が大蝗害に襲われ、民で流殍(流亡・餓死)する者が十分の五、六に上った。


 そこで、石勒せきろくはその将・石越せきえつを派遣し、騎兵二万を率いて并州に駐屯させ、流民を招いて受け入れさせた。石勒に帰順した者は二十万戸に上った。


 これに昭武帝が使者を送って石勒を譴責したが、石勒は命を受け入れず、秘かに青州の曹嶷そうぎょくと結ぶことにした。


 九月、昭武帝は光極殿で群臣と宴を開き、太弟・劉乂りゅうがいに引見した。


 劉乂は容貌が憔悴して鬢髪(髪やもみあげ)が白灰になっており、涕泣して陳謝した。昭武帝も劉乂のために慟哭した。


 昭武帝は、自由に酒を飲んで歓情を極め、以前と同じように遇した。


 そんな中、漢趙の大司馬・劉曜りゅうようは長安に迫っていた。


 これに対して、晋の焦嵩しょうすう竺恢じくかい宋哲そうてつがそれぞれ兵を率いて長安の救援に向かった。散騎常侍・華輯かしゅうも京兆、馮翊、弘農、上洛の四郡の兵を監督して東の霸上に駐屯した。


 しかし皆、強盛な漢趙の兵を畏れて、前に進もうとしなかった。


 相国・司馬保しばほ胡崧こしょうに命じて、兵を率いて入援させた。


 胡崧は霊台(周の文王の霊台が長安の西四十里にあり、高さは二丈、周囲は百二十歩あった)で漢趙の大司馬・劉曜を撃破することに成功した。


 ところが胡崧は、国威が再び振興して麴允きくいん索綝さくりんの勢力が盛んになることを恐れたため、城西諸郡の兵を指揮して渭北に駐屯したまま進もうとせず、結局、槐里に還ってしまった。

 

 ここに来て、足の引っ張り合いである。


 追撃を受けなかった劉曜は兵を立て直すことに成功し、長安外城を攻めて攻略した。これにより、麴允と索綝は退いて公卿と共に長安小城(恐らく内城)へ移動し、そこで守りを固めた。


 十月、長安の内外が断絶して京師城中の飢餓が甚だしくなり、米一斗が金二両に値するほど高騰した。人が互いに食して死者が大半に上り、逃亡する者を制すこともできなくなっていった。しかし涼州の義衆千人(張軌父子が派遣した兵)だけは命を懸けて守り続けた。


 太倉に「麴数十䴵」があったので(発酵させた麦を練って作ったパンのような物が数十個あったということ)、麴允がそれを屑にして粥を作り、西晋の愍帝・司馬鄴しばぎょうに献上した。しかしすぐにそれも食べ尽くしてしまった。


 十一月、愍帝が泣いて麴允に、


「今、城内はこのように困窮していて、外には救援がない。恥を忍んで城を出て降り、そうすることで士民を活きさせることにしよう」


 と言い、嘆いて、


「私の大事を誤らせたのは麴・索の二公である」


 と、続けた。


 愍帝は侍中・宗敞そうしょうを派遣して劉曜に降牋(投降の書)を送らせた。


 ところが、索綝が秘かに宋敞を留め、自分の子を派遣して劉曜にこう説いた。


「今、城中の食はなお一年を支えるに足り、まだ容易には克てません。もし、索綝を車騎・儀同・万戸郡公とすることに同意するならば、城を挙げて投降することを請います」


 劉曜は索綝の子を斬って送り還し、こう伝えた。


「帝王の師とは、義によって行動するものだ。私は兵を率いて十五年になったが、未だに詭計によって人を敗ったことがなく、必ず武を尽くして形勢を極めてから、勝利を得てきた。今、索綝の発言がこのようであったが、天下において悪とみなすことは共通している。故に天下のため、これを殺した。もし兵糧が確かにまだ尽きていないようならば、尽力して固守すればよいではないか。もし食糧が尽きて兵が微弱になっているのなら、やはり早く天命を覚るべきである」


 数日後、宗敞が劉曜の営に至り、その翌日、愍帝は羊車に乗り、肉袒・銜璧・輿櫬して(「肉袒」は上半身の服を脱ぐこと、「銜璧」は璧玉を口に銜えること、「輿櫬」は棺を従わせることで、全て投降の姿である)、東門を出て劉曜に降った。


 群臣が号泣し、車にすがりついて愍帝の手を取る中、愍帝も悲しみを抑えることができなかった。


 御史中丞・馮翊の人・吉朗きつろうが嘆いて、


「私の智は謀ることができず、勇によって死ぬことができなかった。どうして君臣が相従って北面し、賊虜に仕えることを忍べるだろう」


 と言って自殺した。


 劉曜は棺を焼いて璧を受け取り、宗敞に命じて、愍帝を奉じて皇宮に還らせた後、愍帝および公卿以下の者を劉曜の営に遷した。


 やがて愍帝らは平陽(漢趙の都)に送られた。


 昭武帝が光極殿に臨み、愍帝はその前で稽首した。


 麴允は地に伏せて慟哭し、抱きかかえても起こすことができなかった。昭武帝は怒って麴允を囚禁させると、麴允は自殺した。


 麴允という人は無能ではなかったが、人の上に立つ者として非情になれず、決断力に乏しかったためこういうような結果となったのである。


 昭武帝は愍帝を光禄大夫に任命して懐安侯に封じた。


 また、大司馬・劉曜を假黄鉞・大都督・督陝西諸軍事・太宰とし、秦王に封じた。


 そして、大赦を行い、建元二年から麟嘉元年に改元した。


 麴允はその忠烈によって車騎将軍の位が贈られ、諡号を節愍侯とされたが、逆に索綝は不忠によって都の市(平陽の市)で斬られた。


 尚書・梁允りょういん、侍中・梁濬りょうしゅん、散騎常侍・厳敦げんとん、左丞・臧振ぞうしん、黄門侍郎・任播じんはん張偉ちょうい杜曼とまんらおよび諸郡守は皆、劉曜に殺され、華輯は南山に奔った。


 こうして西晋王朝は滅びることになった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 麴允は面白い人物ではあるのですが、仁(身内への愛)しかなかったかんじのひとですね、他者への愛とされる義には、非情さもいりますし。
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