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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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劉易

 316年


 正月、晋の司徒・梁芬りょうふんが呉王・司馬晏しばあん(西晋の愍帝・司馬鄴しばぎょうの父)に尊号を贈ることを建議した。


 しかし右僕射・索綝さくりんらが魏の明帝の詔を引用して「不可」とみなした。


 魏の明帝は、小宗出身の皇族が皇統を継いで帝位に即いても、実父に尊号を贈ってはならないことにする詔を出している。


 そこで愍帝は司馬晏に太保の官を贈り、諡号を「孝」とした。


 







 漢趙の中常侍・王沈おうしん宣懐せんかい、中宮僕射・郭猗かくきら宦官は皆、寵愛を得て政事の実権を握っていた。


 漢趙の昭武帝・劉聡りゅうそうは後宮で游宴して、三日間も酔いが覚めなかったり、百日も出てこないといったことが増えていき、前年の冬からは聴政すらしなくなり、政事は一切を相国・劉粲りゅうさんに委ねた。


 それでも死刑と官員の任免に関してだけは、王沈らに入宮して報告させた。そこは理性は残っていたようである。


 しかしながらそれは王沈らは多くの事を報告せず、自ら私意によって裁決した。


 そのため勲功がある旧臣でも功績を評価されず、任官・昇格できないことがあり、逆に姦佞な小人なのに数日で二千石に至った者もいた。


 しかも、軍旅を毎年起こしながらも、将士には銭帛の賞がなく、一方、後宮の家には賞賜が僮僕にも及び、その額は簡単に数千万に上った。


 王沈らの車服・邸宅は諸王を越え、子弟や中表(祖父や父の姉妹の子や祖母や母の兄弟姉妹の子等、姓氏が異なる親族)で太守・県令になった者は三十余人おり、皆、貪婪で残虐だったため、民の害になっていた。


 靳準きんじゅんはそんな中、一族を挙げて彼らに諂い仕えた。


 郭猗と靳準はどちらも太弟・劉乂りゅうがい(劉义)に対して怨みがあったため、郭猗が相国・劉粲にこう言った。


「殿下は光文帝の嫡孫であり、主上の嫡子ですので、四海で帰心しない者はいません。それにも関わらず、なぜ天下を太弟に与えようと欲するのですか。しかも、私が聞くには、太弟は大将軍(劉粲の弟に当たる勃海王・劉敷りゅうしき)と謀って、三月上巳(三月最初の「巳」の日)の大宴を機に乱を為し、事が成ったら、主上を太上皇にして大将軍を皇太子とすることに同意し、また、衛軍(衛大将軍・劉勱りゅうくんを指す。劉粲の弟)を大単于とすることにも同意したそうです。三王(劉乂、劉敷、劉勱)は不疑の地(疑われることがない地位)におり、並んで重兵を握っているので、これらの条件によって事を挙げたら、成功しないはずがありません。しかし二王(劉敷、劉勱)は一時の利を貪り、父兄を顧みていません。この計画が成功した後、陛下(劉聡)が安全でいられるという道理はなく、殿下(劉粲)とその兄弟(劉敷、劉勱)はなおさら無事でいられるはずがありません。東宮、相国、単于の地位には武陵兄弟がいるようになってしまいます(「武陵兄弟」は劉乂の諸子のこと)。彼らがそれらの地位を人に与えようとするでしょうか。今、禍の時が甚だしく迫っているので、早くこれを図るべきです。私もしばしば主上に進言しましたが、主上は友愛に篤いので、私の刀鋸の余(刑を受けた体。郭猗は宦官)では、結局、信用されませんでした。殿下がこれを漏らさず、秘かにこの状況を上表することを願います。殿下がもし私を信じないようなら、大将軍従事中郎・王皮おうひと衛軍司馬・劉惇りゅうとんを召すべきです。彼らに恩情を与えて、自首することを許してから問えば、必ずこれを知ることができましょう」


 劉粲は同意した。


 そこで郭猗は、秘かに王皮と劉惇にこう言った。


「二王の逆状(反逆の状況)は主上と相国が詳しく知ることとなった。汝らはこれに同調したか?」


 二人は驚いて「そのような事はありません」と答えた。


 しかし郭猗は、


「この事は既に決した。私は汝らの親族・旧知が共に族滅されることを憐れむ」


 と言い、歔欷(すすり泣くこと)して涙を流した。


 二人は大いに懼れ、叩頭して哀れみを請うた。すると郭猗が言った。


「私が汝らのために計ったとして、汝らはそれを用いることができるか。私の計に従えるのならば、相国が汝らに問うたら、汝らはただ『そのような事があった』と言え。もし汝らが先に報告しなかったことを譴責されたら、汝らはすぐにこう言え、『我々は誠に死罪を負っています。しかし主上の寛仁と殿下の敦睦を仰ぎ思うに、もし進言して信用されなかったら、誣譖不測の誅(知り得ないことを讒言した罪)に陥ってしまうので、敢えて進言することができなかったのです』と」


 王皮と劉惇は許諾した。


 果たして、劉粲が二人を招いて質問した。二人は別々の時に至ったが、その言葉が同じだったため、劉粲は郭猗が報告した通りだと信じるようになった。


 靳準も劉粲にこう説いた。


「殿下は自ら太子に立ち、そこで相国を兼任して、天下に身を委ねられる者がいることを早く知らせるべきです。今、道路の言(道を行く人の言葉)は、皆、『大将軍と衛将軍が太弟を奉じて変を為そうと欲しており、三月を期日としている』と言っています。もし太弟に天下を得させたら、殿下には容足の地(足を置く地)も無くなってしまいます」


 劉粲が「それではどうすればいい」と問うと、靳準はこう答えた。


「太弟が変を為すと人が告げても、主上は必ず信じません。東宮の禁を緩めて賓客が往来できるようにするべきです。太弟はかねてから士を遇すことを好みますので、そのようになっても嫌疑することはありません。軽薄な小人と申す者は、太弟の意に迎合して、彼のために謀らずにはいられません。その後、私が殿下のためにその罪を暴露し、殿下が賓客の中で太弟と交流した者を逮捕して、拷問します。獄辞が既にそろったら、主上が信じない道理がありません」


 劉粲は卜抽ぼくちゅうに令を下し、兵を率いて東宮から去らせた。


 少府・陳休ちんきゅうと左衛将軍・卜崇ぼくすうは為人が清直で、かねてから王沈らを嫌っていたため、公座(官吏が政務を行う席。または公の場)にいる時でも話すらしたことがなかった。王沈らはこれを深く憎んでいた。


 侍中・卜幹ぼくかんが陳休と卜崇にこう言った。


「王沈等の勢力は天地を覆すに足りている。汝らは自らを測るに、竇武、陳蕃と比べて親賢だと思うか?」


 竇武と陳蕃は後漢末に宦官を除こうとして失敗した人物たちである。彼の言葉にある「親賢」とは「竇武の親(皇帝の近親。竇武は外戚)」と「陳蕃の賢」を指す。


 陳休と卜崇が言った。


「我々は年が五十を越え、職位も既に高くなった。ただ、一死を欠いているだけだ。忠義のために死ぬのなら、死に場所を得たことになる。俛首仾眉(頭を下げて眉を低くすること。恭順な姿)して宦官に仕えることができようか。卜公は去れ。それ以上言うことはない」


 二月、昭武帝が外出して上秋閤(恐らく宮門の一つ)に臨み、陳休、卜崇および特進・綦毋達じぼたつ、太中大夫・公師彧こうしいく、尚書・王琰おうえん田歆でんきん、大司農・朱諧しゅかい(「朱誕」)の逮捕を命じて、全て誅殺した。皆、宦官に憎まれていた者達である。


 陳休等が殺される前に、卜幹が泣いて昭武帝を諫めた。


「陛下はまさに側席して賢才を求めているのに(「側席」は正面の席を避けて傍の席に坐ることで、賢人に対する尊重を表す)、一旦にして卿大夫を七人も殺戮されようとしています。彼らは皆、国の忠良で、失ってはならない存在です。たとえ陳休らに罪があったとしても、陛下が有司(関係部門)に下してその罪状を暴露しなかったら、天下はどこから罪状を知るのでしょうか。詔はまだ私の所にあり、敢えて宣布できずにいます(卜幹は侍中で、詔は侍中を経由した)。陛下が熟思することを願います」


 卜幹は言い終ると叩頭して血を流した。しかし王沈が卜幹を叱責して、


「卜侍中は詔を拒みたいのか」


 と言った。昭武帝は衣服を払って宮中に入り、卜幹を罷免して庶人にした。


 太宰・河間王・劉易りゅうえき、大将軍・勃海王・劉敷、御史大夫・陳元達ちんげんたつ、金紫光禄大夫・西河の人・王延おうえんらがそろって宮闕を訪ね、上表して昭武帝を諫めた。


「王沈らは詔旨を偽り弄び、上天を欺瞞し、内は陛下に諂い、外は相国に媚び、威権の重さは人主と並び、多くの姦党を樹立し、毒が海内に流れています。陳休らが忠臣で、国のために節を尽くしていたことを知りながら、自分の姦状が発覚することを恐れたため、巧みに誣陷(誣告して陥れること)を為しました。その結果、陛下はそれを察することなく急いで極刑を加えることになりました。痛みが天地に達し、賢人も愚人も悲傷し、恐懼しております。今は遺晋(晋の残党)がまだ消滅せず、巴・蜀も服従せず、石勒せきろくは趙・魏の占拠を謀り、曹嶷そうぎょくは全斉の王になろうと欲しています。陛下の心腹・四肢において、どこに憂患がないでしょう。そのうえまた王沈らが乱を助け、巫咸を誅して扁鵲を戮したら、私らは膏肓の疾ができてしまい、後から救おうとしても手遅れになることを恐れます。王沈らの官を免じ、有司(関係部門)に送って罪を治めることを請います」


「巫咸」は商代の巫で、医術に通じていた人物で、扁鵲は古の名医である。「膏肓の疾」は治療できない病のことを指す。


 昭武帝はこの上書を王沈らに示し、笑ってこう言った。


「群児(子供達。劉易、劉敷を指す)が元達に引かれて痴呆になってしまった」


 王沈等は頓首して泣きながらこう言った。


「我々は小人ですが、過分にも陛下の抜擢を蒙ったので、皇宮にお仕えすることができました。しかし王公・朝士は我々を讎のように嫌っており、また、深く陛下を恨んでいます。我々を使って鼎鑊(釜茹でに使う鼎や鍋)を潤すことを願います。そうすれば、朝廷が自然に和睦した様子となりましょう」


 昭武帝は彼らの言葉に感心したように、


「彼らの狂言は常にこのようである。汝らがなぜ恨むに足りるのだ」


 昭武帝が王沈らについて相国・劉粲に意見を求めると、劉粲は盛んに王沈らの忠清を称賛した。悦んだ昭武帝は王沈らを列侯に封じた。


 これを受け、太宰・劉易が再び宮闕を訪ねて上書し、諫言を極めた。これに昭武帝は大いに怒り、自分の手で上書を破り棄てた。


 三月、劉易は諫言を聞き入れてもらえない憤怒のため死んだ。


 劉易はこのように忠直だったため、陳元達は劉易を頼って自分の後ろ盾にしており、そのおかげで陳元達は諫争を尽くすことができていた。


 劉易が死ぬと、陳元達は哀哭して悲痛を極め、


「人(賢人)が亡んだら、邦国が殄悴(困苦・凋落)するものだ(『詩経‧大雅‧瞻卬』の言葉)。私は既に諫言することができなくなってしまった。なぜ黙々としてとりあえず生を貪ることができるだろうか」


 と言い、家に帰って自殺した。


 

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