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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
序章 晋王朝の傾き

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崇譲論

 286年


 司徒・魏舒ぎじょが病と称して頑なに辞職を請うた。その結果、子爵の身分で罷免された。


 魏舒が何かをする時は、必ず先に行動してから発言したため、遜位の際にも、事前に知る者はいなかったという。


 そんな中、衛瓘えいかんが魏舒に書を送った。


「私はいつもあなたと共にこの事(遜位)を論じていたが、日日、果たさなかった」


 衛瓘も遜位を欲しており、魏舒とそれを論じてきていたが、日が経っても果たせずにいたのである。


「あなたは『前にいるように見えて、いつの間にか後ろにいる』というものだ」


 この言葉は『論語』に記載されている顔淵が孔子を評した言葉で、高大かつ深遠でつかみどころがない、という意味である。顔淵の孔子への尊敬を感じさせる言葉である。


 この衛瓘の魏舒への言葉はこの後の彼の運命を踏まえると悲しい言葉である。








 鮮卑の慕容廆ぼようかいが遼東を侵した。


 その彼が自殺に追い込んだ扶餘王・依慮の子・依羅が生存した者を率いて旧国に帰り、晋に国を回復させることを求めた。東夷校尉・何龕かがんに救援を請うた。


 何龕は督護・賈沈かちんを派遣し、兵を率いて依羅を送らせた。


 慕容廆は将・孫丁そんていを派遣し、騎兵を率いて路上で邀撃させたが、賈沈が力戦して孫丁を斬ったため、扶餘は復国された。


「どうしたものか……」


 思ったよりも晋軍が強いというのが慕容廆の感想である。


「相手は長年、汝らのような者を相手してきたのだから強くなければ困るじゃろうよ」


 徐郁じょいくは何らの感情もなくそう言う。


「前回も敗れている中でのこれだ。更には拓跋氏も強くなっている。我々の影響力は更に下がっているではないか」


 この頃、鮮卑において宇文氏の他にも拓跋氏も強くなっている。


「だがそれは晋とて同じことよ」


「どういう意味だ?」


「晋とて彼らが成長することには脅威を覚えているはずじゃ。そのための牽制を行いたいとも思っている」


「ふむ……」


「つまりは……その牽制役に私がなれと?」


「そうじゃ」


 それは晋王朝に従えということである。


「説得に時間がかかりそうだな」


「それでもやるべきじゃ」


 徐郁はこの地に来てみて、鮮卑と一括りしても数多の部族と勢力があり、敵対関係のあるところが多い、このようにバラバラの状態で晋王朝と対峙しても勝つのは難しい。


「汝が大業を成そうというのであれば、鮮卑単于になるべきじゃ」


 鮮卑を先ずはまとめあげてから天下に覇を示すべきであろう。


「今、お前さんの存在感が増している状態じゃ。そのお前さんが王朝に従うというのであれば、喜んで官位をやるだろう。形だけでも王朝からもらった名分はこの後の動きやすさを変える」


「わかった。やろう」


 慕容廆は彼の言葉に頷いた。


 289年


 慕容廆は側近を集め、


「我が先公は代々、中華を奉じてきた。その上、華夷の理(漢民族と異民族の風俗や礼儀)は同一では無く、その強弱は比べるまでもなく明らかである。それにも関わらず、晋と競い合う事など出来るであろうか。どうして不和となって我が百姓に害を及ぼすことが出来ようか」


 と宣言し、晋への帰順を決定した。そして朝廷へ帰順の使者を派遣すると、西晋の武帝・司馬炎しばえんはその到来を喜んだ。長年、こちらに侵攻してきた彼の帰順は反乱が増えている今では朗報であったためである。


 五月、晋は慕容廆を鮮卑都督に任命した。


 それを受けて慕容廆は何龕に謁見しようとして、士大夫の礼に則って巾衣で門に至った。魏晋時代の士大夫は尊貴な者に会う時、巾褠を礼とした。「巾」は頭巾、「褠」は単衣のことである。


 しかし何龕は彼を警戒して、兵を整えて慕容廆に会った。そのため慕容廆も服を軍服に改めて門を入った。


 ある人がその理由を問うと、慕容廆はこう答えた。


「主人が礼をもって客を遇しないのに、なぜ客がそうするのだ」


 これを聞いた何龕は甚だ慚愧し、慕容廆を深く敬異した。


 晋王朝へ帰順したことを知った鮮卑の宇文氏と段氏は慕容廆を警戒して侵略・略奪を行うようになっていった。


「ここは我慢じゃ」


 徐郁の言葉に従い、慕容廆は下手に戦を従わず、辞を低くして礼物を厚くし、彼らに仕えた。その有効の証として段国単于・かいが娘を慕容廆に嫁がせた。慕容廆はこれによって慕容皝ぼようこう慕容仁ぼようじん慕容昭ぼようしょうの三子をもうけることになる。


 慕容廆は遼東が僻遠だったため、徒河の青山に移住した。










 十一月、尚書令・済北侯・荀勗じゅんきょくが死んだ。


 荀勗には優れた才能と思想があり、人主の意を伺うのが得意だったため、その寵を固めることができた。


 久しく中書にいて専ら国家の大事を管理していたため、尚書に遷ってからは甚だ失意し、荀勗を祝賀する者がいると、


「私の鳳皇池を奪ったのに、諸君は何を祝賀するのだ」


 と言った。中書は禁苑(皇宮の庭園)にあり、鳳皇池も禁苑にあったため、鳳皇池は中書を指すようになったという。


 一方、西晋の武帝は声色に意を極めており、ついに病を患うようになっていた。その有様はこのようなものであったという。


 彼は呉を滅ぼした際、呉の皇帝であった孫皓の後宮の五千人を自らの後宮に入れ、合計一万人もの宮女を収容した広大な後宮を、毎夜、羊に引かせた車に乗って回った。


 この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。


 そのため宮女たちは自分のところに武帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛っておいた。羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるためである。


 この塩を盛るという故事が、日本の料理店などで盛り塩をするようになった起源とも言われている。


 実際に一万人を相手にしたということは無いだろうが、毎夜行っていたのは事実である。そのため病に伏せるようになった。


 病に倒れている間、政治の実権を握っていたのは楊駿ようしゅん(楊皇后の父)である。彼は同じように政治に大きな力を持っていた汝南王・司馬亮しばりょうを嫌っていたため、朝廷から排出しようとした。


 司馬亮を侍中・大司馬・假黄鉞・大都督・督豫州諸軍事に任命して許昌を治めさせることにした


 また、南陽王・司馬柬しばかんを秦王に遷して都督関中諸軍事に任命し、始平王・司馬瑋しばいを楚王に遷して都督荊州諸軍事に任命し、濮陽王・司馬允しばいんを淮南王に遷して都督揚江二州諸軍事に任命し、併せて符節を貸し与えて封国に行かせた。それぞれ地方の軍事を統括させた。


 司馬柬、司馬瑋、司馬允ともに武帝の子である。


 更に、皇子の司馬乂しばがいを長沙王に、司馬穎しばえいを成都王に、司馬晏しばあんを呉王に、司馬熾しばしを豫章王に、司馬演しばえんを代王に立てて、皇孫・司馬遹しばいつを広陵王に立てた。


 淮南王の子・司馬迪しばてきを漢王に、楚王の子・司馬儀しばぎを毗陵王に封じた。


 汝南王・司馬亮の次子・司馬羕しばようを西陽公にした。


 扶風王・司馬暢しばちょうを順陽王に遷し、司馬暢の弟・司馬歆しばきんを新野公にした。司馬暢は司馬駿の子である。


 琅邪王・司馬覲しばきんの弟・司馬澹しばせんを東武公に、司馬繇しばようを東安公に、司馬漼しばすいを広陵公に、司馬巻しばけんを東莞公にした。司馬覲は司馬伷(琅邪武王)の子で、司馬伷は司馬懿の子である。


 諸王国の相を内史に改めた。


 皇孫・司馬遹について記す。


 かつて武帝が才人・謝玖しゃきゅうを太子・司馬衷しばちゅうに下賜し、生まれたのが司馬遹である。


 ある夜、宮中で失火したことがあった。武帝が楼に登ってそれを眺めると、この時まだ五歳だった司馬遹が武帝の裾を引いて闇の中に入らせ、こう言った。


「暮夜に起きた緊急の事なので、非常事態に備えるべきです。人々に人主を照らして見させるべきはありません」


 この事があってから、武帝は司馬遹を奇として愛し、群臣に対しても、


「遹は宣帝(司馬懿)に似ている」


 と言うようになったため天下は皆、司馬遹に敬慕したという。


 そのため武帝は太子を不才だと思いながらも、司馬遹の聡明さを愛していたため、廃立しようとしなかった。


 武帝は王佑おうゆうの謀を用いて、太子の同母弟に当たる司馬柬、司馬瑋、司馬允を分けて要害を鎮守させることにした。


 王佑は王済の従兄で、かつて羊祜らと共に文帝(司馬昭)に仕え、武帝の代になっても寵信されていた人物である。「要害」は雍・荊・揚州の地を指す。


 武帝は外戚・楊氏の逼迫も恐れたため、王佑を北軍中候に任命して禁兵を管理させることにした。


 武帝は皇孫・広陵王・司馬遹のために補佐の臣を精選し、散騎常侍・劉寔りゅうしょくの志行が清素だったので、広陵王傅に任命した。


 劉寔は、当時の風気が上に向かうことを喜んで清廉・謙譲が少ないと考え、『崇譲論』を著した人物である。『崇譲論』は「初めて官に任命されて謝章(感謝の上表)を届けた者は、必ず賢人を推挙して能力がある者に譲るようにさせ、それができたら謝章を通せるようにするべきであり、一官に欠員が出たら、為人において謙譲が最も多い者を選んで用いるべきだ」という内容である。


 劉寔はこう考えた。


「人の情とは、もし争ったら自分が及ばない者を倒そうと欲し、もし譲ったら競って自分より勝る者を推薦するものである。だからこそ世が争うようならば、その優劣を分け難くなり、時勢が謙譲ならば、賢人・智者が明かに見えるようになる。今この時において、身を退けて自分を修めることができれば、謙譲する者が多くなり、たとえ優秀な人材が仕官せず清貧を守ろうとしてもできなくなる。自分が奔走追求しながら人に謙譲させようと欲するのは、後ろに行きながら前に進もうとするようなものである」


 これに合わせて、淮南相・劉頌りゅうこうの上書も行われている。


「陛下は法禁を寛容にしておられますが、このような状態は以前からの積み重ねによるものであり、一旦において法制を用いて下の者を御すことはできないので、誠にこれは時勢に合ったことというものです。しかし矯世救弊(世を正して弊害から救うこと)に至っては、自ずから徐々に清粛に就くべきであり、譬えるなら舟が進むのと同じで、急流を横切ることはできませんが、流れに乗って。少しずつ前に進み、徐々に目的とする場所に向かえば、最後は渡ることができましょう。泰始以来、三十年が経とうとしていますが(実際は足掛けで二十五年)、諸事業は以前より盛んになっていません。陛下の明聖をもってしても、まだ叔世の敝(衰乱の時代の弊害)を覆せずにいるのです。始初の隆盛を成就させて、それを後世に伝えるということを思わないのでしょうか。もしも後世の大業が不安になったとしたら、その重責はやはり陛下にあります」


 晋王朝が上手くいくかは武帝の、今の時代にかかっているのである。


「私が聞くに、社稷のために計るなら、親賢(近親・賢才)の封建に勝ることはないといいます。但し、事勢を考察すべきであり、もしも諸侯が義を遵守して動くのならば、その力は京邑を守ってまとめるには足りますが、もし禍心を隠し持っていたら、当然、単独では役に立たなくなります。これを整えるのは甚だ難しいことですが、陛下は古今の事に精通した士と共に深くこれを図るべきです。周の諸侯は、罪があったらその身を誅殺されましたが、国君の位は喪失しませんでした。漢の諸侯は、罪があったり子がいない者は、国もそれと共に亡びました。今は漢の弊害を覆して周の旧制に倣うべきです。そうすれば、下が固まって上が安んじることができましょう」


 胡三省は彼の言動を補うため周時代の処罰の例を出している。例えば周は斉の哀公を誅殺したが、その弟を国君に立てた。また、魯侯・伯御を誅殺したが、改めて孝公を立てた。罪を犯した諸侯は誅殺しても、国は滅ぼさなかったということである。


「天下とは極めて大きく、万事は極めて多いですが、人君は極めて少なくで、天の太陽と同じです。だからこそ、聖王の政とは、根本を自分で掌握して、諸務は下に委ねるのです。これは聖王が労苦を嫌って安逸を好むからではなく、誠に政体とはそうあるべきだからなのです。事に当たって始めにできるかどうかを判別するのは、考察するのが甚だ困難です。逆に成敗によって功罪を分けるのは、識別するのが甚だ容易です。今、陛下はいつも事の始めに専心しているのに、結果に対する考察を疎かにしています。これが政治の成果が完美にならない理由です。もし人主が平穏に要を掌握して、成敗の後に功罪を考察することができれば、群下が賞罰から漏れることもなくなります」


 武帝の政治の在り方の姿勢を忠烈に批難した言葉である。


「古は六卿が分職して冢宰が師になりました。秦・漢以来は九列が政務を行い、丞相が総管しました。今は尚書が専断しており、諸卿は既に決定したことを実行しているだけなので、古制を基にしたら尚書の権限が重くなり過ぎています。各官署がそれぞれの職務を専門に処理できるようにするべきです。尚書は大綱を統領し、秦・漢の丞相が為したように、年末の官員に対する考課や文書の確認・賞罰を担当するだけでも問題ないはずです。今は全ての行動において、皆が既に決定した指示を尚書から受けているだけなので、上の過失によって下を罰するわけにはいかず、年末になって事業と功績が建てられなくても、責任の所在が分からなくなっています」


 古の六卿とは『周礼』によると天官冢宰、地官司徒、春官宗伯、夏官司馬、秋官司寇、冬官司空を六卿といい、冢宰がそれを総管した。


「細かい過失や道理から外れた事柄とは、人の情において必ず有るものです。それなのに法に依ってことごとく正したら、朝野に生きた人がいなくなってしまいます。近世以来、監司となる者は、おおむね、大綱を振るうことはないのに細かい過失は必ず挙げています。思うに、豪強を畏れ避け、また、職事の荒廃を懼れているので、慎重に網を密にして微罪を捕まえ、弾劾の上奏を相次がせて公を尽くしているように見せていますが、実際には法を乱しており、法を乱しているのに、それが隠されています。聖王は些細な案件を好まず、凶悪・狡猾を弾劾する上奏を追求したので、政事を害す姦人が自然に捕えられたのです」


 過失ばかりを咎めていれば、何も残らず、本来排除すべき者を排除できなくなる。


「創業の勲功とは、教化を立てて制度を定め、後世に残した風気によって人心を繋がせ、余烈(残された功績)によって子孫を正させ、後世がこれを頼りにするかどうかにかかっており、暗昏でも明亮のようであり、愚でも智のようであれば、尊ぶに足りるのです」


 法制が明らかならば、後嗣が暗愚でも依拠するものがあるので、その政治は明智な者が為すことができる。


「官署の修飾に至っては、建築による労役は常に過度な状態が害になるので、労役を設けないことを患いる必要はありません。これは将来、陛下の指示を待たなくても必要ならば、自然にできることです。今は必要ないことに勤めており、その結果、根本となることを損なっているので、心中でそれを誤りだと思っています」


 武帝は劉寔や劉頌等の意見を用いることができなかった。



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― 新着の感想 ―
[一言] 衛瓘は歴史に名の残る女性の時代までに引退できませんでしたからね…
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