邵続
石勒が王俊を滅ぼしたことを知った劉琨は漢趙を撃とうとして拓跋猗盧に兵を請うた。しかし、ちょうど猗盧が管轄する雑胡一万余家が石勒に応じようと謀ったため、猗盧はこれを悉く誅殺し、結局、劉琨の盟約には赴かなかった。
劉琨は更に、石勒には投降の意思がないと知り、大いに懼れて上表した。
「東北八州のうち、石勒がその七を滅ぼしました」
ここで胡三省が解説を行っている。
石勒は鄴に入って都督・東燕王・司馬騰を殺し、信都を侵して冀州刺史・王斌を殺し、鄄城を襲って兗州刺史・袁孚を殺し、新蔡を攻めて豫州刺史・新蔡王・司馬確を殺し、蒙城を襲って青州都督・苟晞を捕え、上白を攻略して青州刺史・李惲を斬り、信都を攻めて冀州刺史・王象を殺し、定陵を攻めて兗州刺史・田徽を殺し、幽州を襲って王浚を捕えた。この九人のうち、李惲と田徽以外は、王浚の承制によって官位を授けられていた。つまり李惲、田徽以外の勢力が石勒に滅ぼされた「七州」である。
あるいは、胡三省が挙げている九人のうち、七人の刺史(冀州刺史・王斌、冀州刺史・王象、兗州刺史・袁孚、兗州刺史・田徽、豫州刺史・司馬確、青州刺史・李惲、幽州刺史・王浚)が「七州」に当たるのかもしれない。これに并州刺史・劉琨を加えたら八人(八州)になる。
「先朝から官位を授けられた者の中で、存続しているのは私だけです。石勒は襄国を占拠しており、私とは山で隔てられていますが(この「山」は太行・恆山から幽・碣に至るまで延々と連なっている。襄国は山東に、晋陽は山西にあった)、朝に発したら夕に至ります。城塢が恐懼しており、たとえ忠憤を抱いていても、願いをかなえるには力が足りません」
王俊を滅ぼした後、行幽州刺史(幽州刺史代行)に任命されていた劉翰は石勒に従うことを欲しなかったため、段匹磾に帰順した。段匹磾はこれに応え、薊城を占拠した。
石勒が薊を攻略した際、散騎常侍・棗嵩へ幽州の優れた人士を問うた。棗嵩は幹事の才を有する人物として、陽裕の名を挙げた。
陽裕は字は士倫といい、陽耽の甥である。
幼い頃に両親を亡くし、兄弟もまた早死にしたため、若い内に自立し生活を送っていた。彼の親族でその才能に気づく者はいなかったが、ただ叔父の陽耽だけは幼い頃から彼の事をただ者ではないと感じており、
「この児はただ我が一門の俊秀なだけではなく、佐時の良器というべきである」
と語ったという。
その後、幽州刺史・和演より招聘を受け、主簿に任じられた。王浚が和演を殺害して幽州を領有するようになると、やがて治中従事に移った。だが、王浚からは疎まれて重用されなかった人物である。
石勒は彼を用いようとしたが、陽裕は衣服を替えて変装してその場を逃れ、そのまま令支へ奔った。
段部首領の段疾陸眷は陽裕の到来を知り、彼を呼び寄せて厚遇しようとした。陽裕は友人の成泮に、
「仲尼(孔子の字)は仏肸の招きを喜び、自らを匏瓜と喩えたものだ。伊尹もまた非君に仕えず、非民を使わずと称した。聖賢が尊ぶのはこのようであった。我らもそうであろう。陸眷は今、我を召しているが、どうしてこれに従えようか」
と言ったが、成泮は、
「今や華夏は分崩し、九州は離裂している。統治が及ぶのはただ易水周辺のみだ。再び盛んとなるには、河が清くなるのを待たねばなるまい。だが、人の命はいったいどれほどの持つというのか。故に古人は時の過ぎゆく様を嘆いたのではないか。少游(馬援の従弟の馬少游)は『蔭の後であっても郡掾となるには足る』と申したがが、国相であれば尚更である。汝は伊・孔(伊尹・孔子)を追踪しようとするのであれば、この機が天意であることを知るべきだ」
と説いた。陽裕はこれに応じて段疾陸眷に帰順すると、郎中令・中軍将軍に任じられ、上卿の地位に列する事となった。
会稽の人・朱左車、魯国の人・孔纂、泰山の人・胡母翼は薊から逃げて昌黎に奔り、慕容廆を頼った。
当時、中原の流民で慕容廆に帰順した者は数万家に上った。慕容廆は冀州人によって冀陽郡を設け、豫州人によって成周郡を設け、青州人によって營丘郡を設け、并州人によって唐国郡を設けた。
以前、王浚が邵続を楽陵太守に任命して厭次に駐屯させた。王浚が敗れてから、邵続は石勒に帰附した。石勒は邵続の子・邵乂を督護にした。
王浚が任命した勃海太守・東莱の人・劉胤が郡を棄てて邵続を頼り、こう言った。
「そもそも、大功を立てる時というのは、必ず大義を根拠にするものです。あなたは晋の忠臣にも関わらず、どうして賊に従って自らを汚そうとしているのですか?」
ちょうど段匹磾が邵続に書を送り、共に左丞相・司馬睿に帰順するように誘った。邵続はこれに従うことにした。
これに邵続の部下が皆、
「今、石勒を棄てて段匹磾に従えば、邵乂は如何されるのですか?」
と言ったが、邵続は泣いて、
「私がどうして子を顧みて叛臣になることができるだろうか」
と言い、異議がある者を数人殺した。これを聞いた石勒は邵乂を殺した。
邵続が劉胤を使者にして江東に派遣した。
司馬睿は劉胤を参軍に、邵続を平原太守に任命した。
石勒が兵を派遣して邵続を包囲したが、段匹磾が弟の段文鴦を派遣して救援させたため、石勒は引きあげた。
ちょうどこの頃、襄国(石勒の拠点)に大飢饉が襲い、穀物二升が銀一斤に、肉一斤が銀一両に高騰するほどになったというのもあった。
杜弢の別将・王真が林障で荊州刺史・陶侃を襲った。これを受け、陶侃は灄中に退いた。
そこに尋陽太守・周訪が陶侃を救って杜弢の兵を撃ち、これを破った。
五月、晋の涼州刺史・西平公(諡号は武穆公)・張軌が病に倒れ、遺令を発した。
「文武将佐は務めて百姓を安んじ、上は報国を思い、下は家を安寧にせよ」
張軌が世を去った。
『晋書』の著者である房玄齢(唐の名臣)らは、
『周公(竇融の字)はこの地を保つ事で功績を立て、士彦(張軌の字)もまたこの地を擁して長生を布いたのだ。摯虞は星象を観測して涼州に洪災が訪れぬ事を記し、侯瑾(後漢の人)は泉を観察して覇者がこの地に在る事を知った。これを見るに、張軌の勢力が繁栄したのはただ地勢によるものだけではなく、天道に合致していたからではなかっただろうか』
と評している。また、賛においては、
『三象(太陽・月・星)は妖気を構え、九土(中国全土)は分裂し、皇帝は江東へ遷り、地は黄河の畔にて絶たれてしまった。それでもなお張君(張軌とその子孫を指す)は晋室に帰誠した。何と美なる事か。内においては難民を慰撫し、外においては流賊を攘った。世は既に遠く隔たっていたが、国は大いに富んだ。天理・人心に逆らわずに基業を為した事で、蓋天が佑ける所となったのだ』
と評されている。
『資治通鑑』に注釈を付けた胡三省は、
『ああ、世が乱れるや、人は自らを全うする事を考えた。だが、全を求めようとも、多くの者は全うする事は出来なかったものだ。竇融・張軌はいずれも河西へ出る事を求め、全を求めながら全を得る事が出来た者たちである。一方、謝晦(東晋から南朝宋の人)・袁顗(南朝宋の人)はいずれも荊州に鎮する事を求め、全を求めるも全う出来なかった者たちである。思うに、竇融・張軌は始終に渡って一心に漢・晋を奉じ続けた。永終の福禄を得られたのも至極当然の事であり、故に子孫へも幸福が残されていったのである。謝晦・袁顗は険阻なる地に拠って身を全うする事を志したが、用心する事が無かった為に天より幸福を与えられる事が無かったのだ。さらに劉焉は益州を牧す事を求め、袁紹は冀州を図る事を志し、石敬瑭(五代後秦の皇帝)は河東を心より欲した。いずれも非望の身ながら謀略を企て、遅速の差はあれど成敗が至る事となった。則ち智慮が及ばなかったという事であろう』
と述べている。
長史・張璽らが上表して世子・張寔に父の官位・職務を代行させた。




