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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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荒波を進め

 王如の余党・涪陵の人・李運りうんや巴西の人・王建おうけんらが襄陽から三千余家を率いて漢中に入った。


 これに対して晋の梁州刺史・張光ちょうこうは参軍・晋邈しんぱくを派遣して、兵を率いて拒ませようとした。しかし晋邈は李運と王建から賄賂が送られるとこれを受け取り、、張光に対して投降を受け入れるように勧めた。


 張光はこれに従い、彼らを成固に住ませた。


 暫くして、晋邈は李運、王建らが珍宝を多く持っていることを知った。


 欲深い晋邈はそれらを全て奪い取ろうと考え、再び張光にこう説いた。


「李運、王建の徒は農事を修めず、専ら武器を整えており、その意思が測り難いので、不意を襲って全て殺すべきです。そうしなかったら、必ず乱を為しましょう」


 張光はまた進言に従った。


 これに胡三省はこう述べている。


「将は下において貪婪で、帥は上において暗愚だった。梁州の禍はまたここから始まった」


 五月、晋邈が兵を率いて李運や王建を攻め、彼らを殺した。


 しかし、王建の婿・楊虎ようこが余衆を集めて張光に反抗し、厄水に駐屯した。張光は子の張孟萇ちょうもうちょうに楊虎を討たせようとしたが、勝利できなかった。


 





 朝廷が鎮東大将軍・琅邪王・司馬睿しばえいを左丞相・大都督・督陝東諸軍事に、大司馬・南陽王・司馬保しばほを右丞相・大都督・督陝西諸軍事にした。


 西晋の愍帝・司馬鄴しばぎょうは二王に詔を発した。


「陽九百六の厄(「陽九百六」は凶遇・悪運を意味する。「厄」は災難、危難)とは、たとえ盛世にあっても、遭遇するものだ。私は幼年によって先祖の大業を継承したので、祖宗の霊と群公義士の力に頼っており、彼らが凶寇を蕩滅し、皇宮を救うことを期待しているが、その希望がまだ実現できずにいるので、心肝が裂けるようである。昔、西周の周公と邵公が陝で天下を分けたので、姫氏がそれによって隆盛し、東周の平王が東遷してからは晋・鄭が王室の輔佐となった。今、左右丞相は徳が茂って聖明が盛んで、国の昵属(最も親しい関係にあること)なので、二公に頼って、鯨鯢(鯨。凶悪な者の比喩)を掃除し、梓宮(先帝の霊柩)を迎え入れ(懐帝は平陽で殺害されて、死体が返されていない)、克復(失地を奪還すること)・中興するつもりだ。幽・并両州(幽州は王浚おうしゅん、并州は劉琨りゅうこん)に令を発し、兵・三十万を率いて、直接、平陽に到らせることにする。右丞相は秦・涼・梁・雍の軍・三十万を率いて直接、長安に向かうべきである。左丞相は自分が領する精兵・二十万を率いて直接、洛陽に向かうべきである。それぞれ前鋒を派遣し、二州の軍の後援となれ。共同の大限(朝廷が決めた期日)に赴き、大勲を完成させよ」












 漢趙の中山王・劉曜りゅうようが蒲坂に駐屯しました。


 六月、石勒せきろく孔萇こうちょうに定陵を撃たせて王俊が任命した兗州刺史・田徽でんびを殺した。


 王浚が任命した青州刺史・薄盛はくせいはこれに恐れて、自分の兵を率いて石勒に投降した。山東の郡県が相継いで石勒に攻略されていった。


 漢趙の昭武帝・劉聡りゅうそうはこれにより、石勒を侍中・征東大将軍に任命した。


 烏桓も王浚に叛して、秘かに石勒に附いた。


 この状況に対して晋の并州刺史・劉琨と代公・猗盧いろは陘北で会し、漢趙攻撃について謀った。そして七月、劉琨は兵を率いて進軍して藍谷を占拠した。


 猗盧は拓跋普根たくばつふこんを派遣して北屈に駐屯させた。


 劉琨は監軍・韓據かんきょを派遣して西河から南に向かわせ、済南王・劉驥りゅうきがいる西平を攻撃させようとした。


 昭武帝は大将軍・劉粲りゅうさんらを派遣して劉琨を防がせ、驃騎将軍・劉易りゅうえきらを派遣して普根を防がせ、蕩晋将軍・蘭陽らんようらを派遣して西平の守りを助けさせた。


 劉琨らはそれを聞いて、兵を率いて還った。


 昭武帝は諸軍を所在の地に継続して駐屯させ、進攻の準備した。


 





 愍帝は殿中都尉・劉蜀りゅうしょくを派遣し、左丞・琅邪王・司馬睿に五月に発した詔をもって、軍を進めさせ、皇帝である自分と中原で会すように命じた。


 八月、劉蜀らは揚州に到着した。


 しかし、司馬睿は江東を平定したばかりで北伐の余裕がないことを理由に出兵を辞退した。


 この頃、愍帝の諱(実名。「鄴」または「業」)を避けて、建業が建康に、鄴が臨漳に改名された。


 司馬睿は鎮東長史・刁協ちょうきょうを丞相左長史に、従事中郎・彭城の人・劉隗りゅうかいを司直に、邵陵内史・広陵の人・戴邈たくばくを軍諮祭酒に、参軍・丹陽の人・張闓ちょうりょを従事中郎に、尚書郎・潁川の人・鍾雅しょうがを記室参軍に、譙国の人・桓宣かんせんを舍人に、豫章の人・熊遠ゆうえんを主簿に、会稽の人・孔愉こうゆを掾にした。


 劉隗はかねてから文史に習熟しており、善く司馬睿の意を伺って仕えたため、司馬睿に特に親愛された。


 熊遠が上書してこう主張した。


「軍が興きて以来、事務を処理するのに律令を用いず、競って新たな解釈を作り、事に臨んで制度を立てて、朝に作っても夜には改めているため、担当者は安心して法を用いることができず、いつも上の者に報告して指示を求めようになっています。これは為政の姿ではありません。愚見によるならば、およそ異議や反対意見を為す者は、皆、律令・経伝を引用するべきであり、直接、情をもとに発言してはなりません。根拠とするものが無かったら、旧典を損なうことになります。決断が便宜に従い、臨時の措置が事象を制すというようなことは、人君が行えることであり、臣子が勝手に運用すべきことではありません」


 当時はまさに多事の時だったため、司馬睿は従うことができなかった。


 北伐にも臣下との力関係の維持にも消極的な司馬睿に自分に北伐を為させて欲しいと願った者がいる。、


 その者とは、祖逖そてきである。彼は字を士稚といい、彼の祖先は代々二千石の官位を輩出する北方の名家であった。


 父の祖武そぶは晋王掾・上谷郡太守を歴任したが、祖逖が幼い時に亡くなった。彼の兄弟は六人おり、みな立派な才覚を有していると評価された。


 祖逖も度量は広かったが、自由奔放な性分で、学問を修めなかった。十四歳になっても書を読む事がなかったため、諸兄は長く頭を悩ませていたという。


 しかしながら、祖逖は財にはあまり執着せず、義侠心や正義感に溢れ、高い志を有していた。いつも田舍に出向くと兄の意思であると偽って、穀物や絹を貧しい人に配り周った。そのため郷里の人や宗族は彼を甚だ重んじたという。


 成長すると書物に目を通すようになり、古今のものを尽く読み漁るようになった。洛陽へ往来すると、彼を見た者はみな、祖逖は賛世の才(世の中を正す才能)を有していると評価した。


 劉琨とは若い時からの親友で、寝所を共にするほど親密な関係であったという。また、彼らは共に英気があり、いつも世事について議論していた。


 ある夜、突然鶏が鳴き声を挙げたことがあった。祖逖は隣で寝ていた劉琨を蹴り起こすと、


「これは凶兆などではない」


 と言い、起きて剣舞を行った。このことから「聞鶏起舞」という言葉が生まれた。


 彼は鶏の鳴き声を乱世の兆しと取られつつもこれを名を上げる好機と捉えた言葉である。


 またある夜中、座から立ち上がるとお互いに、


「四海が沸き立てば、豪傑が並び立つであろう。我と汝は中原を避けよう」


 と言い合った。


 やがて劉琨と共に司州主簿になった。


 劉琨は出世してからも常に祖逖の事が頭にあったようで、


「私はいつも祖君が私より先に先鞭をつけはしないかと心配しているのだ」


 と人に語ったという。


 その後、「八王の乱」を受けて祖逖は母の病を理由に朝廷から距離を取り、洛陽が陥落すると、祖逖は親族や郎党数百家を連れ、淮河・泗河一帯へ逃れた。


 道中、車馬に老人や病人を乗せて自らは徒歩で進み、薬や衣服食糧は他者に分け与えた。


 祖逖は機略に長けていたことから、みな祖逖を主に推戴した。泗口に到達すると、司馬睿により徐州刺史に任じられた。その後さらに軍諮祭酒に任じられ、丹徒の京口に住居を構えた。


 彼は多くの義士を賓客として迎えており、凶暴で勇猛な者が多くいた。それでも彼は彼らを子弟のように厚遇していた。


 当時、揚州は大飢饉に見舞われており、彼らの多くは群盗となって富豪の家を襲撃していたが、祖逖は彼らを慰撫して、


「南塘(当時の富裕層の居住区)で罪を犯せば、我らはまた去らねばならなくなるぞ」


 と諭した。また、官吏に捕まった者に対しては祖逖自ら弁護を行い、彼らを釈放させた。この事で祖逖を謗る者もいたが、彼自身は自若として気にしなかった。


(孟嘗君は彼らのようなものを用いて大業を為したではないか)


 そういう考えが彼にはあったのかもしれない。


 そんな祖逖は驍健の士を糾合して、司馬睿にこう言った。


「晋室の乱は、上が無道だったために下が怨叛したのではありません。宗室が権を争って自ら互いに殺し合ったので、戎狄に隙を与え、害が中原に流れることになったのです。今、遺民(残された民)は既に暴虐・迫害に遭い、人々は自ら奮起したいと思っています。大王が誠に将に出師を命じることができ、私のような者にそれを統率させて中原を回復しようとするならば、郡国の豪傑には、必ず噂を聞いて呼応する者がいるでしょう」


 しかしながら司馬睿はもともと北伐の志がなかったため、祖逖を奮威将軍・豫州刺史に任命し、千人分の食糧と布三千匹を与えたが、武器・甲冑は支給せず、兵も自分で召募するように命じた。


 祖逖はそれでも何ら文句を言うことなく、自分の部曲百余家を率いて渡江した。そして中流で楫を撃ってこう誓った。


「私がもし中原を清めて再び救済することができなかったら、長江が流れて戻らないように、私も戻ることはない」


 その言葉と顔色は壮烈なものがあり、兵は皆、感嘆した。


 祖逖は淮陰に駐屯し、炉を築いて武器を鋳造し、兵を募って二千余人を得てから、軍を進めた。


 黄色い服の男が呟く。


「荒波の中に進む者よ。己の信じるままに突き進むが良い。それゆえにお前の名は不朽となる」



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