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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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周玘

 西夷校尉・向沈しょうしんが死んだ。


 衆人は汶山太守・蘭維らんしょを推して西夷校尉にした。


 蘭維は吏民を率いて北に出て、巴東に向かい、晋に従おうと考えた。


 しかし成漢の将・李恭りきょう費黒ひこくが邀撃して蘭維を捕えた。











 四月、西晋の懐帝の凶問(弑殺されたという情報)が長安に至った。皇太子・司馬鄴しばぎょうはこれを受けて、挙哀成礼(哀悼して葬礼を行うこと)し、これを機に元服した。


 そのまま司馬鄴が皇帝の位に即いた。これを西晋の愍帝といい、西晋最後の皇帝になる。この時、十四歳である。


 大赦して懐帝の永嘉七年から建興元年に改元した。


 衛将軍・梁芬りょうふんを司徒に、雍州刺史・麴允きくいんを尚書左僕射・録尚書事に、京兆太守・索綝さくりんを尚書右僕射・領吏部・京兆尹にした。


 当時の長安城中は、戸数が百も満たさず、野草が生い茂っており、公私の車は四乗しかなく、百官には礼服や印綬もなく、ただ桑版(桑の木の板)に官号が書かれていただけであった。


 暫くして愍帝が索綝を衛将軍・領太尉に任命し、軍国の事を全て委ねた。


 そんな中、漢趙の中山王・劉曜りゅうようと司隸校尉・喬智明きょうちめいが長安を侵し、平西将軍・趙染ちょうざいも兵を率いて長安に向かった。


 愍帝は麴允に詔を発し、黄白城に駐屯して防がせた。


 その頃、石勒せきろく石虎せきこに鄴を攻めさせた。


 鄴が潰滅して、劉演りゅうえんは廩丘に奔り、三台の流民は皆、石勒に降った。


 石勒は桃豹とうひょうを魏郡太守に任命して慰撫させたが、久しくしてから、桃豹に代わって石虎に鄴を鎮守させた。










 以前、并州刺史・劉琨((りゅうこん)が陳留太守・焦求しょうきゅうを用いて兗州刺史に任命したが、荀藩じゅんはん李述りじゅつを用いて兗州刺史にした。


 李述が焦求を攻めようとしたが、劉琨が焦求を招いて還らせた。


 鄴城が陥落すると、劉琨は再び劉演を兗州刺史に任命し、廩丘を鎮守させた。


 前中書侍郎・郗鑒ちかんは若い頃から清節によって名が知られており、高平の千余家を率いて、乱を避けて嶧山を守っていた。


 そこで、琅邪王・司馬睿しばえいは現地で郗鑒を兗州刺史に任命し、鄒山を守らせた。


 こうして三人がそれぞれ兗州刺史として一郡に駐屯したため、兗州の吏民は誰に従えばいいのか分からなくなってしまった。


 司馬睿は前廬江内史・華譚かたんを軍諮祭酒に任命した。


 華譚はかつて寿春で周馥に身を寄せていたため、司馬睿が華譚に問うた。


「周祖宣(祖宣は周馥の字)はなぜ反したのだ?」


 華譚はこう答えた。


「周馥は死にましたが、天下にはまだ直言の士がいます。周馥は寇賊が蔓延するのを見て、遷都によって国難を除こうと欲しましたが、執政(司馬越)が悦ばなかったので、兵を興してこれを討ったのです。周馥が死んでまだ間もない時に、洛都が陥落しました。もしそれを反したとみなすのなら、冤罪ではありませんか?」


 司馬睿はそれにこう反論した。


「周馥は位が征鎮になり、強兵を握っていたにも関わらず、朝廷が召しても入らず、朝廷が危うくなっても支えようとしなかった。やはり天下の罪人とは言えないか?」


 すると華譚はこう答えた。


「その通りです。朝廷が危うくなっても支えなかったというのは、天下と共にその責を受けるべきであり、周馥だけのことではありません」


 周馥に罪があるのは間違いないが、司馬睿を含む全ての人にも罪があるということである。


 司馬睿の参佐は多くが職責から逃げて自身の安逸を求めていた。


 そこで、録事参軍・陳頵ちんいんが司馬睿に言った。


「洛中が太平だった時、朝士は慎重で恭敬なことを凡俗とみなし、傲慢放縦で無礼なことを優雅とみなし、このような気風に染まりあったため、ついに敗国に至りました。今、僚属は皆、洛陽の余弊を受け継ぎ、虚名を養って自分を高く見せようとしていますが、これは、前の車が既に転覆したのに、後ろの車がまた跡を追おうとしているようなものではありませんか。今からは、使命を受けながら病と称す者は全て免官することを請います」


 司馬睿は従わなかった。


 三王が趙王・司馬倫を誅殺した時、『己亥格(「格」は条例、制度)』を制定して功績を賞した。その後の褒賞も継続して『己亥格』の基準が用いられていた。


 そこで陳頵が上書した。


「昔、趙王が簒逆して恵帝が位を失いましたが、三王が兵を起こしてこれを討ったので、三人を厚く賞すことで、人々に義に向かう心を抱かせました。今は功の大小に関わらず、皆、『己亥格』によって褒賞を決定しており、その結果、金紫が士卒の身に佩され、符節が僕隸の門に委ねられるまでに至っています。これは名号・制度を重んじて綱紀・法度を正すことではありません。一切を停止することを請います」


 陳頵は卑賎な家の出身でしたが、しばしば正論を述べたため、府中の多くの者に嫌われた。司馬睿はそんな彼らの意向を踏まえて、陳頵を外に出して譙郡太守にした。








 司馬睿は呉興太守・周玘しゅうきの宗族が強盛だったので、とても疑い畏れてきた。


 司馬睿の左右に仕えて政務を行っている者は、多くが中原で官位を失って節操を棄てた士人であった。しかし南下してから呉人を制御するようになったため、呉人は彼らを非常に怨んでいた。


 周玘は自分が職権を失ったと思っており、しかも軍諮祭酒・刁協ちょうきょうに軽視されていたため、羞恥と怨恨がますます甚だしくなっていた。そこで、秘かに党人と謀り、執政している者を誅殺して、南方の諸人士に代えさせようとした。


 そんな中、王恢おうかいが密かに流民の統領である夏鉄かきんらと連携し、彼らに淮・泗の地において挙兵するよう命じると、自らは周玘と共に三呉の地(呉郡・呉興郡・会稽郡)においてこれに応じようとした。


 夏鉄は数百人の兵を纏め上げたが、臨淮郡太守・蔡豹さいひょうがこれを察知し、挙兵前に夏鉄を処断した。王恢は夏鉄の死を聞いて密防が漏れるのを恐れ、周玘の下へ逃走してきた。だが、周玘はこれを殺害すると、厠に埋葬した。


 司馬睿は周玘らの企みを知ったが、敢えてこれを秘めたまま咎める事なく、周玘を招聘して鎮東司馬に任じた。さらに建武将軍・南郡太守に任命した。


 周玘は命に従って南へ向かったが、蕪湖へ至った時に再び勅命が下り、


「周玘の家は代々忠烈であり、義誠は顕著であり、私は欽喜している所である。今、軍諮祭酒に任じ、将軍号については以前通り都市、爵位を公に勧め、俸禄については開国の例に倣うものとする」


 と伝えた。


 周玘は突如として建康に呼び戻される事に憤ったが、同時にこれは謀略が漏れた事が理由だと思い、遂に憂憤から背中に疽を発し、やがて亡くなった。


 死に臨んで、子の周勰しゅうぎょうへ、


「私を殺したのは諸傖子である(傖とは呉人が中原の人を呼ぶときの蔑称)。この仇を討てるのは我が子だけだ」


 と語った。司馬睿からは輔国将軍を追贈され、忠烈と諡された。

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― 新着の感想 ―
[一言] 周玘の直系は祖父といい父といいインパクトのある逸話がありますねぇ…祖父のは演戯で派手に盛ったのが流布しちゃってますが。
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