陳元達
313年
正月、漢趙の昭武帝・劉聡は光極殿で宴を開き、西晋の懐帝・会稽公・司馬熾に命じて、青衣(卑賎な者が着る服)を着て酒を注いでまわらせた。
晋の侍中・庾珉、王雋らは悲憤に堪えられず号哭した。昭武帝はそれを見て、彼らの忠誠心が未だに懐帝にあることを理解し、嫌った。
やがてある人物が昭武帝に囁いた。
「庾珉らは平陽を挙げて劉琨に応じようと謀っているそうです」
と、告発した。
二月、昭武帝は庾珉、王雋ら晋の旧臣十余人を殺し、懐帝も平陽で処刑した。懐帝はこの時、三十歳という若さであった。
昭武帝は大赦を行い、再び会稽劉夫人(会稽公・司馬熾の夫人)を自分の貴人にした。
懐帝の死後、秘書監・荀崧(荀彧の玄孫)は常に人にこう語った。
「懐帝は天姿(天性の容姿)は清雅にして優美で、若い頃から良才であった。もし太平の世に遇っていたのではあれば、守文の佳主(先代の法度を守って国を治める善主)となるに足りていただろう。しかし恵帝の擾乱の後を継ぎ、東海(司馬越)が専政したため、幽厲の釁(周の幽王、厲王のように国を衰退させた罪)はなかったのに、流亡の禍に巻き込まれることになった」
漢趙の太后・張氏(昭武帝・劉聡の母)が死んだ。諡号を「光献」という。張皇后も悲哀に堪えられず、死んでしまった。諡号を「武孝」という。
張皇后は張寔の娘で、張寔は張太后の兄弟の子である。
三月、昭武帝は代わりの皇后として貴嬪・劉娥を皇后に立てて、劉皇后のために䳨儀殿(「䳨」は「凰」の異体字)を建築した。
これに廷尉・陳元達が切諫した。
「天は民を生み、民衆のために君主を樹立して、彼らを統治させたのです。故に君主と臣民がいるのは万民の命によって一人の欲を追究するためではないのです。晋氏が徳を失って大漢が天命を受けたので、民衆は首を延ばして労役が止むことを期待しています。そのため、光文皇帝(劉淵)は身に大布(目が粗い布)を着て住居には重茵(厚くて柔らかい座布団)がなく、后妃は錦綺を着ず、乗輿の馬は粟を食べませんでした。それは民を愛さんとしたためです。ところが陛下は即位以来、既に殿観を四十余カ所も造り、加えて軍旅をしばしば興して、食糧の輸送は止むことなく、しかも饑饉・疾疫に襲われ、民衆の死と逃亡を相継いがせています。それにも関わらず、ますます造営を為すのは、民の父母としての心といえるでしょうか。今は晋の遺臣、遺民がおり、西は関中を占拠して、南は江表を専断しています。そのうえ李雄が巴・蜀を占有し、王浚と劉琨が肘腋を窺い、石勒と曹嶷は貢稟がしだいに疎かになっています。陛下はこれらの事を放置して憂うることなく、逆に中宮のために殿を造っておられますが、これが目前の急務なのでしょうか?」
『貢稟』の「貢」は貢献、「稟」は詔命を受け入れることである。
「昔、太宗(前漢の文帝)は治安の世に居て、粟帛が充実していたのに、なお百金の費を惜しんで、露台の建築を中止しました。陛下は荒乱の後を継承し、所有している地は太宗の二郡にも過ぎず、戦守の備えは、ただ匈奴と南越に対してだけではありません。それにも関わらず、宮室の奢侈がここに至っているので、私は敢えて死を冒して諫言しないわけにはいきません」
当時、昭武帝が統治していた地は、漢代の河東・西河の二郡に当たる地のみだったため、『太宗の二郡に過ぎない』という発言があるのである。
昭武帝が大いに怒って言った。
「私は天子である。一殿を造営するのに、なぜ汝のような鼠子(鼠のように取るに足りない者)に意見を求めなければならないのか。汝は敢えて妄言によって衆人の意気を損ねさせた。この鼠子を殺さなければ、私の殿も完成しない」
昭武帝は左右に、
「引きだして斬れ。あわせてその妻子も東市で梟首(首を斬って晒す刑)に処し、鼠の群れを同じ穴に葬れ」
と、命じた。
この時、昭武帝は逍遥園の李中堂にいた。陳元達はあらかじめ鎖を腰に巻いて入見しており、昭武帝が激怒するとすぐに鎖で自分を堂下の樹に縛って、こう叫んだ。
「私が発言した内容は、社稷の計です。しかし陛下は私を殺そうとしています。朱雲は『私は龍逢や比干と遊ぶことができれば満足だ』という言がありました」
朱雲は前漢の臣で、危険を冒して切諫したことで、名声を得た人物である。諫言を為した際、宮殿の欄檻に捕まって抵抗して、それが折れるまで手を離さなかった。この故事から『折檻』という言葉が生まれたことでも有名である。
左右の者が陳元達を引っぱったが、動かせなかった。
そんな中、大司徒・任顗、光禄大夫・朱紀、范隆、驃騎大将軍・河間王・劉易らが叩頭して血を流しながら言った。
「陳元達は先帝に認められ、天命を受けて漢を建てたばかりの時に、招かれて門下に置かれ、忠を尽くして思慮をめぐらし、知っていることなら何でも発言して参りました。私らは功もないのに禄を受け取り、安逸を偸んでいるので、彼を見るたびに、慚愧しないことはありませんでした。今、彼が発言したことは狂直(無礼なほど率直なこと)ではあるものの、陛下は許容なさることを願います。諫言によって列卿を斬ったら、後世は如何みなすでしょうか?」
昭武帝は黙ってしまった。
この事を聞いた劉皇后は、秘かに左右の者に勅命して刑を止めさせ、直筆の書を提出して昭武帝にこう伝えた。
「今、宮室は既に備わっているので、わざわざ更に造営する必要はありません。四海が一つになっていないので、民力を愛す(惜しむ)べきです。廷尉の言は社稷の福なので、陛下は封賞を加えるべきなのに、逆に誅殺されようとしています。四海は陛下をどうみるでしょうか。忠臣で諫言を進める者は、元からその身を顧みないものです。そして、人主で諫言を拒む者も、その身を顧みていません。陛下が私のために宮殿を造営して諫臣を殺したら、忠良に舌を結ばせるのは私が原因となり、遠近を怨怒させるのも私が原因となり、公私を困窮、疲弊させるのも私が原因となり、社稷を危険に臨ませるのも私が原因となり、天下の罪が全て私に集まることになります。私がどうしてこれに当たることができましょうか。私が今までの国家の敗亡を観たところ、婦人から始まらなかったことはなく、心中で常にこれを嫌ってきました。それなのに、今日この身で自らそうすることになるとは思いませんでした。このままでは私が昔の人を視るように、後世の人に私を視させることになります。私は誠に再び巾櫛を奉じる面目がないので、この堂で死を賜り、陛下の過ちを補うことを願います」
彼女の言う『巾櫛を奉じる」というのは、夫が顔を洗う時、顔を拭く布や櫛をもって傍に侍るという意味で、妻として夫につかえることを意味した言葉である。
昭武帝は劉皇后の書を読んで顔色を変え、任顗らがいつまでも叩頭して涙を流したままでいたため、昭武帝がゆっくり言った。
「私は近年以来、少し風疾を得たので、喜怒が度を越えても自制できなくなってしまった。陳元達は忠臣であるが、私はそれを察していなかった。しかし諸公は破首して(頭から血を流して)それを明らかにすることができた。誠に輔弼の義(帝王を輔佐する臣下の道理)を得ていると言わざる負えない。私は心中で慚愧の念を抱いている。どうして今回の事を忘れることができるだろうか」
昭武帝は任顗らに命じて、冠を被って履物を履いてから席に就かせ、陳元達を招いて堂上に登らせ、劉氏の書を示してこう言った。
「外では公のような者が私を輔佐し、内では皇后のような者が輔佐している。私はまた何を憂うる必要があるだろうか」
昭武帝は任顗らにそれぞれ差をつけて穀帛を下賜し、逍遥園を納賢園に、李中堂を愧賢堂に改名した。
昭武帝が陳元達に言った。
「汝が私を畏れるはずだったが、逆に私に汝を畏れさせることになってしまった」




