王澄
王澄は若い頃から兄の王衍と共に海内で名が知られていた。
かつて、劉琨が王澄にこう言ったことがあった。
「汝は、形は散朗(世俗にとらわれず、直爽快朗なこと)としているが、内実は動侠(軽率で豪俠なこと)だ。そのようにして処世していれば、その良い死に方を得るのは難しいだろう」
王澄は荊州にいるようになってから、成都内史・王機を気に入り、自分に次ぐ人材だとみなして、内では中枢を治めさせ、外に対しては自分の爪牙にした。
この頃、王澄はしばしば杜弢に敗れたため、声望・実績とも損なわれていたが、なお、傲然として得意になっており、憂懼の心はなかった。ただ王機と日夜、ほしいままに酒を飲み、博弈(棋盤を使う遊戯。賭博)をして過ごした。
上下の者が離心するようになり、南平太守・應詹がしばしば諫めたが、王澄は聴かなかった。
王澄が杜弢を撃つために自ら軍を出して作塘に駐軍した。
山簡の元参軍・王沖が衆人を擁して應詹を迎え、荊州刺史にしようとしたが、應詹は王沖が品行がなく、信用のおけない人物だったため、放棄して南平に還った。
そこで王沖が自ら刺史を称した。
これを懼れた王澄は、自分の将・杜蕤に江陵を守らせて、治所を孱陵に遷し、暫くして、更に沓中に奔った。
別駕・郭舒が王澄を諫めた。
「あなた様は州に臨んでから特殊な政績がないものの、依然として一州の人心が繋がっています。今、西は華容県の兵を集めれば、この小醜を捕えるに足ります。どうして自ら棄てて、急いで奔逃するのですか?」
王澄は従わず、郭舒も一緒に東下させようとした。
しかし郭舒は、
「私は万里の紀綱となりながら、匡正することができず、あなた様を奔亡させることになってしまいました。誠に渡江するのは忍びないことです」
と言って留まり、沌口に駐屯した。
彼の言う『万里の紀綱』の「万里」とは大きな州のことで、ここでは荊州を指す。「紀綱」は法度を管理することで、ここでは州の官員を指す。郭舒は州別駕だったので、「万里紀綱」と言ったのである。
この事を聞いた琅邪王・司馬睿は、王澄を召して軍諮祭酒に任命し、代わりに軍諮祭酒・周顗を送って王澄と交替させた。
王澄は司馬睿の召還に応じた。
周顗が州に至ったばかりの時、建平の流民・傅密らが叛して杜弢を迎え入れた。杜弢の別将・王真が沔陽を襲った。
周顗は狼狽して拠点を失った。
そこで征討都督・王敦が武昌太守・陶侃、尋陽太守・周訪、歴陽内史・甘卓を派遣し、共に杜弢を撃たせた。
王敦自身も兵を進めて豫章に駐屯し、諸軍の後援になった。
王澄が王敦を訪ねに行ったものの、自分の名声がかねてから王敦の上であると思っていたため、この時も王敦を侮った。
怒った王敦は王澄が杜弢と交流していると誣告し、壮士を送って絞殺した。
王機は王澄が死んだと聞いて、禍を懼れた。そこで、自分の父・王毅と兄の王矩がどちらもかつて広州刺史だったので、王敦を訪ねて広州に行くことを求めた。
王敦はこれを拒否したが、ちょうど広州の将・温卲らが刺史・郭訥に叛して王機を刺史に迎えたため、王機は奴客や門生千余人を率いて広州に入った。
郭訥が兵を派遣して王機を拒んだが、将士は皆、王機の父兄が広州にいた頃の部曲だったので、戦わずに王機を迎え入れて投降した。
郭訥は位を避けて州を王機に授けた。
王如の軍中が飢乏したため、官軍がこれを討った。党人の多くが投降した。計に窮した王如は王敦に降った。
この頃、鎮東軍司・顧榮と前太子洗馬・衛玠が死んだ。
衛玠は衛瓘の孫で、風采は美しく、清談を善くした。常に、
「人に完全ではない部分があっても、情理によって寛恕すべきあり、意図せずに侵犯されたことは、道理によって解決すべきだ」
と考えていたため、終生、喜怒の色を見せなかったという。
江陽太守・張啓が益州刺史・王異を殺して自ら替わった。張啓は張翼(蜀漢の将)の孫である。
その張啓は暫くして病死した。
三府の文武諸官は共に上表して涪陵太守・向沈を行西夷校尉にした。向沈は南に遷って涪陵を守った。
南安赤亭の羌人・姚弋仲が東の楡眉に遷った。
彼は幼い頃より聡明かつ勇猛で、思い切りが良く剛毅な性格であった。生業に従事せずに人の世話や救済を好み、自らの務めであるかのように振る舞ったため、部族から畏敬の念を受け、信頼された。
そのため戎・夏(異民族と漢人)で襁負(子供や荷物を背負うこと)して従った者が数万人に上ったという。
姚弋仲は自ら護羌校尉・雍州刺史・扶風公を称した。




