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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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司馬越

 311年



 晋の青州刺史・苟晞こうき曹嶷そうぎょくとの闘いを継続していたが、不意の奇襲に合い、敗れたため、城を棄てて高平に奔った。


 その隙に石勒せきろくは江・漢を占拠して自立しようと謀った。ここで初めて彼は漢趙から離れることを考え始めたのである。


 彼にとって死んだ劉淵は志のある命を預けるに相応しい人物だと思っていた。しかし彼は死に、彼の後を継いだのは漢趙の昭武帝・劉聡りゅうそうである。


(劉淵とは違う)


 劉淵の志のようなものが彼にはない。その彼のために命を預けることも張ることもできないと石勒は考えたのである。


 しかしこれに反対したのは参軍都尉・張賓ちょうひんである。


「時期尚早です」


 それが彼の反対理由であった。


「それに軍が自立する状況ではありません」


 ちょうど軍中を飢疫が襲い、死者が太半に及んでいたのである。


 石勒は彼の言葉に最初は頷かなかったものの、軍の状況を考え、従うことにした。そしてそのまま石勒は沔水を渡って江夏を侵し、攻略した。


 晋の江夏太守・楊珉ようこんは武昌に奔った。











 成漢の太傅・李驤りじょうは涪城を攻略して譙登しょうとうを獲た。また、太保・李始りしが巴西を攻略して文石ぶんせきを殺した。


 成漢の武帝・李雄りゆうはこれに喜び、大赦して晏平六年から玉衡元年に改元した。


 譙登が成都に至ると、武帝は寛恕したいと思ったが、譙登の言辞と志が屈しなかったため、結局、譙登を殺した。最後まで気高い人ではあった。


 一方、氐の苻成ふせい隗文かいぶんがまた叛し、宜都から巴東に向かった。


 晋の建平都尉・暴重ぼうじゅうが苻成らを討伐し、これを機に益州刺史・韓松かんしょうを殺して、自ら三府(平西将軍府、益州刺史府、西戎校尉府)の政務を統領した。


 巴・蜀の流民が荊・湘の間(荊州・湘州一帯)に分布したが、しばしば土民に侵されて苦しめられていたため、蜀人・李驤りじょう(成漢の李驤とは別人)が人を集め、楽郷を占拠して反した。


 しかし、南平太守・應詹おうせんと醴陵令・杜弢とげんが共にこれを撃って破った。


 荊州刺史・王澄おうとうも成都内史・王機おうきに李驤を討たせた。


 李驤が投降を請うたが、王澄は偽って同意してから李驤を襲って殺し、その妻子を褒賞にした。しかも、八千余人を江に沈めた。この寛容の欠片もない行為によって流民はますます怨恨を抱かせることになった。


 蜀の人・杜疇としらがまた反した。


 湘州参軍・馮素ふうそは蜀の人・汝班じょはんと間隙があったため、刺史・荀眺こうとうに、


「巴・蜀の流民が、皆、造反を欲しています」


 と、言った。荀眺はこれを信じて、流民を全て誅殺しようとした。


 それを知った流民は大いに懼れ、四、五万家が一斉に反した。杜弢は州里で厚い声望があったため、流民が共に主に推した。


 杜弢は自ら梁益二州牧・領湘州刺史を称した。


 益州の将吏が共に暴重を殺し、上表して巴郡太守・張羅ちょうらに三府の政務を代行させた。しかし張羅は隗文らと戦って死んだ。


 隗文らはそのまま吏民を略奪してから、西に向かって成漢に降った。。


 三府の文武(諸官員)は共に上表して平西司馬・蜀郡の人・王異おういに三府の政務を代行させ、巴郡の太守を兼任させた。


 以前、梁州刺史・張光ちょうこうが魏興で諸郡守と会合し、共に漢中への進攻について謀っていた。


 張燕が率先して提言した。


「漢中は荒敗しており、大賊と隣接しています。失地奪還の事は、英雄が現れるのを待つべきです」


 張光は、かつて張燕が鄧定の賄賂を受けとったために漢中を失うことになり、今また衆人の士気を損なわせたので、叱咤して連れ出させ、斬首させていた。


 その後、兵を治めて交戦し、年を経てやっと漢中に至った。張光が荒廃した地を平定して人々を慰撫したため、百姓が悦んで服した。








 裴碩はいせきが琅邪王・司馬睿しばえいに救援を求めた。


 司馬睿は揚威将軍・甘卓かんたくらを派遣して寿春で周馥しゅうふくを攻撃させた。


 周馥は部衆が潰えて項に奔ったが、豫州都督・新蔡王・司馬確しばかくに捕えられ、憂憤して死んだ。司馬確は司馬騰の子である


 そんな状況の中、二月、漢趙の石勒が汝南を侵した。汝南王・司馬祐しばゆうは建鄴に奔った。


 石勒はそのまま新蔡を攻めて新蔡王・司馬確を南頓で殺した。彼は更に進軍して許昌を攻略し、平東将軍・王康おうこうを殺した。


 東海王・司馬越しばえつと苟晞に間隙が生まれてから、河南尹・潘滔はんとう、尚書・劉望りゅうぼうらがまた司馬越に従って、苟晞を讒言した。


 怒った苟晞は上表して潘滔らの首を求め、こう宣言した。


「司馬元超(元超は司馬越の字)は宰相となりながら不公平であり、天下を混乱させている。私は不義をもって彼を容認することはできない」


 苟晞は諸州に檄文を送り、自分の功労を称えて、司馬越の罪状を述べた。


 西晋の懐帝・司馬熾しばしも、司馬越が専権して多くの詔命に違えていることを嫌っていた。しかも司馬越が留めた将士・何倫かりんらが公卿を侵犯して公主たちを凌辱していたため、秘かに手詔(直筆の詔)を書いて苟晞に下賜し、司馬越を討たせることにした。


 ところが、苟晞はしばしば懐帝と文書を往来させた。彼は妙に細かすぎるところがあり、疑問があるとすぐに答えを求める書簡を出したのである。


 この行動により、司馬越が疑いを抱き、遊騎を派遣して成皋の間で様子を伺わせた。果たして、遊騎が苟晞の使者と詔書を獲た。


 司馬越は檄を下して苟晞の罪状を公表し、従事中郎・楊瑁ようぼうを兗州刺史に任命して、徐州刺史・裴盾はいじゅんと共に苟晞を討たせることにした。


 一方の苟晞は騎兵を送って潘滔を捕えようとした。しかし潘滔は夜の間に遁走して逃れた。逃げ足の速い人である。


 苟晞は尚書・劉曾りゅうかいと侍中・程延ていえんを捕えて斬った。


 司馬越はこの状況に憂い、それが原因で病を患った。彼は後事を王衍おうえんに託した。


 三月、司馬越は項で死んだ。これにより、八王の乱で生き残った最後の八人目の王が死んだのである。


『晋書』において、


『司馬越は威権を専断し、覇業を為さんと画策していた。また、朝賢をかねてより望み、勝手に佐吏・名将・精兵を選出して自らの府を充足させた。臣下に有るまじき行動を取っている事は四海の誰もが知る所であった。故に公私共に欠乏し、寇乱が起きて州郡の心は離れ、上下は崩離し、禍は深くなって、憂懼は疾と成ったのである』


 と、司馬越の振る舞いは酷評されている。


 王衍らは共に司馬越の霊柩を奉じて東海に還り、埋葬した。


 何倫かりん李惲りこうらは司馬越が死んだと聞いて、裴妃と世子・司馬毗しばひを奉じて洛陽から東に走った。城中の士民も争ってこれに従った。


 懐帝は司馬越を追貶(死後に官爵を落とすこと)して県王とし、苟晞を大将軍・大都督・督青徐兗豫荊揚六州諸軍事に任命した。

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