譙登
王俊の配下・王申始が瓶塁で劉曜と王彌を攻めて破った。
そんな中、晋の太傅・東海王・司馬越は王延らを殺してから衆望を失い、また胡寇(異民族の侵攻)がますます盛んになっていたため、内心で不安を抱くようになっていた。
そこで彼は軍服で入見し、石勒を討つことと、暫く兗・豫を鎮守してその地に留まることを請うた。
西晋の懐帝・司馬熾が言った。
「今は胡虜が郊外・近畿を逼迫しており、人々に固い意志がないので、朝廷・社稷はあなたに頼っている。なぜ遠出して根本を孤立させることができるのだ?」
司馬越はこう答えた。
「私が出て、幸いにも賊を破ることができたら、国威を振るわせます。坐して困窮を待つよりもましです」
十一月、司馬越が兵・四万を率いて許昌に向かった。妃の裴氏、世子の司馬毗および龍驤将軍・李惲、右衛将軍・何倫を留め、京師を守衛して宮内を監察させた。また、潘滔を河南尹にして留守中の政務を総監させた。
司馬越は上表して行台(臨時に外設された尚書台)を自分に従わせた。太尉・王衍を用いて軍司とし、朝廷の賢才でかねてから声望がある者をことごとく佐吏にして、名将・強兵も全て自分の府に入れたため、宮省には守衛できる者がいなくなった。
荒饉が日に日に甚だしくなり、殿内に死人が重なった。しかも、盗賊が公然と横行して、警報の鼓声が絶えない有様であった。府邸・官署や営舎はそろって濠を掘って守りを固めた。
司馬越は東に向かって項に駐屯した。馮嵩を左司馬に任命し、自ら豫州牧を兼任するとした。
その様子を見て、竟陵王・司馬楙が懐帝に上言し、兵を派遣して何倫を襲わせた。しかし、勝利することはできなかった。
懐帝は罪を司馬楙に帰したが、司馬楙は逃亡して免れた。
晋の鎮東将軍・揚州都督・周馥が、洛陽の孤立を理由に上書して、懐帝を寿春に迎えて遷都するように請うた。
それを知った太傅・司馬越は、周馥が自分に報告せず、直接上書したことに大怒し、周馥と淮南太守・裴碩を召還した。しかし周馥は赴こうとせず、裴碩に命じて、兵を率いて先に進ませた。
すると裴碩は偽って司馬越の密旨を受けたと称し、周馥を襲った。
結局、裴碩は周馥に敗れたため、退いて東城を守った。
懐帝が詔を発し、張軌に鎮西将軍・都督隴右諸軍事を加えた。光禄大夫・傅祗と太常・摯虞が張軌に書を送って京師の窮乏を告げた。
張軌は参軍・杜勳を派遣して馬・五百頭と毯布(細い毛で織った布)三万匹を献上した。
成漢の太傅・李驤が涪城の譙登を攻めた。
羅尚の子・羅宇および参佐はかねてから危機にある譙登を憎んでいたため、食糧を与えなかった。晋の益州刺史・皮素はそれを知ると怒り、羅宇らの罪を裁くことにした。
十二月、皮素が巴郡に到ったが、処罰されることを恐れた羅宇が人を送り、夜の間に皮素を暗殺した。ところが、羅宇も建平都尉・暴重に殺されたため、巴郡は主導者を失い、混乱した。
李驤は譙登の食糧が尽きて援軍も絶えたと知るとますます激しく涪を攻撃した。しかしながら涪城の士民は皆、鼠を燻して食糧とし、餓死する者が甚だ多数に上ったが、一人も離叛しなかった。
これ以前から李驤の子・李寿が譙登の元で捕らわれていたが、譙登は李寿を帰らせた。譙登を裏切る者がいないのはこういったところにあるのだろう。
三府の官属(「三府」は平西将軍府、益州刺史府、西戎校尉府を指す。全て羅尚が兼領していた)が上表し、巴東監軍・南陽の人・韓松を益州刺史にして、巴東を治所にした。
以前、懐帝は、王彌と石勒が京畿に侵略したため、征東大将軍・苟晞に詔を発して、州郡を監督させ、討伐させようとした。
しかし、ちょうど曹嶷(王彌の別帥)が琅邪を破り、北に向かって斉の地を収め、兵勢が甚だ盛んになったため、青州を守る苟純は城門を閉じて守りを固めた。
これを受け、苟晞は王彌・石勒の討伐をあきらめ引き還して青州を救い、曹嶷と連戦して破った。
この年、寧州刺史・王遜が官に就き、上表して李釗(前寧州刺史・李毅の子)を朱提太守にした。
当時の寧州は、外は成漢に逼迫され、内には夷寇があり、城邑が廃墟になっていた。
王遜は粗末な服を着て野菜を食べ、離散した者を招集し、帰順した者を慰労・安撫して、倦むことがなかった。その結果、数年の間に州境が再び安定するようになっていった。
また、法を奉じない豪族十余家を誅殺し、五苓夷がかつて乱の元になっていたため、攻撃して滅ぼした。王遜はこうして内外を震撼させ、畏服させた。
漢趙の昭武帝・劉聡は混乱の中とは言え、序列を越えて即位したことで、嫡兄の劉恭を猜忌していた。そのため劉恭が寝ている間に壁に穴をあけて刺殺した。
そんな中、漢趙の太后・単氏が死んだ。そのため昭武帝は実母の張氏を尊んで皇太后にした。
その単氏であるが、年が若くて美貌があったため、昭武帝が姦通したことがあった。
この事を太弟・劉乂(単氏の子)がしばしば諫言したため、単氏は慚愧して死んでしまった。この後、昭武帝の劉乂に対する寵信がしだいに衰えたが、劉乂は単氏の子だったため、皇太弟の地位を廃されることはなかった。
呼延后が昭武帝に言った。
「父が死んだら子が継ぐというのは、古今の常道です。陛下は高祖(劉淵の廟号)の業を継承されました。太弟とは何者なのでしょうか。陛下の百年の死後、粲の兄弟(昭武帝の子)には必ず子孫が無くなってしまいます」
昭武帝が、
「その通りだ。ゆっくり考えよう」
と応えると、呼延氏がまた言った。
「事を留めたら変事が生まれます。太弟は粲の兄弟が徐々に成長するのを見て、必ずや不安の心を抱いているはずです。万一、小人が謀略して太弟と帝を離間させれば、今日にも禍が起きるかもしれません」
昭武帝は心中で納得した。
一方では、劉乂の舅(母の兄弟)に当たる光禄大夫・単沖が泣いて劉乂にこう言っていた。
「関係が遠い者が親しい者の間に入ることはできないものです。陛下には河内王・劉粲を後継者にしたいという気持ちがあります。殿下(劉乂)はなぜ皇太帝の位を避けようとされないのですか?」
しかし劉乂はこう言った。
「河瑞(光文帝の年号)の末、陛下は自ら嫡庶の分(嫡子と庶子の分別)を思って、大位を私に譲ろうとした。しかし私は、主上が年長なので推奉したのだ。天下とは高祖の天下である。兄が終わって弟に及ぶことが、どうして相応しくないと言えるのだろうか(劉乂が皇太弟になってもおかしくはない)。粲の兄弟が成長しても、今日と同じである。そもそも、子弟の間にどれだけの親疎が有るというのか。主上にどうしてそのような心があろうはずがない」
彼は年上の自分が劉粲兄弟に推奉されるのは当然だと考えていた。




