漢趙での崩御と混乱
成漢の武帝・李雄がその将・張寶に言った。
「汝が梓潼を得られるようならば、私は賞として死んだ李離の官を汝に与えよう」
張寶はまず殺人の罪を犯してから、逃亡して梓潼に奔った。訇琦らは張寶を信じて彼に重任を委ねた。
ちょうど羅尚が派遣した使者が梓潼に至り、使者が帰る時、訇琦らが城を出て使者を送ったこの時、張寶も後ろに従い、訇琦らが城を出た隙に門を閉じて梓潼をそのまま占領した。
梓潼が占領されたため、訇琦らは巴西に奔った。武帝は喜び、張寶を太尉にした。
梓潼を失ったことに動揺したのか晋の羅尚は巴郡で死んだ。蜀の人々は彼を評して、
「羅尚が愛すのは邪か佞の者で、憎むのは忠か正の者だ。魯・衛の如く富を築き、家は市場をなすほどだ。まるで豺狼のように貪欲であり、それが尽きることはない」
と、言った。また、
「蜀の賊はまだ良いが、羅尚は我々を殺戮するだろう。平西将軍らしいが、禍をもたらしているだけに過ぎない」
と、評したという。
これを受け、懐帝は詔を発して長沙太守・下邳の人・皮素に代わらせた。
五月、石勒は汲郡を侵して太守・胡寵を捕らえた。そのまま南に向かって河を渡った。晋の滎陽太守・裴純は恐れて建鄴に奔った。
七月、漢趙の楚王・劉聡、始安王・劉曜と石勒および安北大将軍・趙固が懐(地名)で晋の河内太守・裴整を包囲した。
西晋の懐帝・司馬熾が詔を発して征虜将軍・宋抽に懐を救わせたが、石勒と平北大将軍・王桑が宋抽を逆撃して戦死させた。
河内の人々は漢趙の勢いを恐れ、裴整を捕えて漢趙に投降した。漢趙の光文帝・劉淵は裴整を尚書左丞に任命した。
晋の河内督将・郭默が裴整の余衆を集めて自ら塢主(城の小さいものを「塢」という)となった。劉琨は正式に郭默を河内太守に任命した。
趙漢が晋王朝へ猛攻を仕掛けている中、光文帝が病に倒れた。
彼は病の中、陳留王・劉歓楽を太宰に、長楽王・劉洋を太傅に、江都王・劉延年を太保に、楚王・劉聡を大司馬・大単于に任命し、四人そろって尚書の政務を主管させることにした。平陽西に単于台が置かれた。
また、斉王・劉裕を大司徒に、魯王・劉隆を尚書令に、北海王・劉乂を撫軍大将軍・領司隸校尉に、始安王・劉曜を征討大都督・領単于左輔に、廷尉・喬智明を冠軍大将軍・領単于右輔に、光禄大夫・劉殷を左僕射に、王育を右僕射に、任顗を吏部尚書に、朱紀を中書監に、護軍・馬景を領左衛将軍に、永安王・劉安国を領右衛将軍に任命し、安昌王・劉盛、安邑王・劉欽、西陽王・劉璿の三人に武衛将軍を兼任させ、分かれて禁兵を主管させた。
この中の劉盛は幼い頃から読書を好まず、ただ『孝経』と『論語』を読んで、
「これだけを諳んじて実行できれば充分だ。どうして実行しないのにたくさん読む必要があるのか」
と言っていた。
ある時、李熹が劉盛に会って感嘆し、
「彼を遠くから眺めたら軽慢に見えるが、近くに至ったら、厳粛な様子は威厳のある君主のようであり、君子とみなすことができる」
と言った。
光文帝も劉盛のことを評価しており、彼が忠篤であるとして臨終に及んで要任を委ねた。
その後、光文帝は太宰・劉歓楽らを召して禁中に入らせ、遺詔を授けて輔政を命じた。その数日後、光文帝は崩御した。
光文帝・劉淵は高潔にして、大志を持ち、晋打倒を明確にして戦った時代を動かしたと言える人物である。
太子・劉和が即位した。
劉和の字は玄泰といい、身長が八尺あり、剛毅で姿儀が美しく、学問を好んで『毛詩』・『春秋左氏伝』・『鄭氏易』を学んだ。そのため評価されたという。
しかしながら皇太子になると劉和は疑い深くなり、恩徳を示すことはなかった。
宗正・呼延攸は光文帝の最側近であった呼延翼の子であったが、才能と徳行がなかったため、光文帝は、終生、呼延攸を昇格させなかった。また、侍中・劉乗は以前から楚王・劉聡を嫌っており、衛尉・西昌王・劉鋭も顧命に預かれなかったことを恥じとしていたため、三人が互いに謀って劉和にこう説得した。
「先帝は軽重の勢を考慮せず、三王に内で強兵を総領させ、大司馬に近郊で十万の兵を擁して駐屯させました」
ここの「三王」は安昌王・劉盛、安邑王・劉欽、西陽王・劉璿または斉王・劉裕、魯王・劉隆、北海王・劉乂」を指すと言われている。大司馬・劉聡は平陽西に駐屯している。
「陛下は寄坐(客位に居ること。立場が安定せず、実権がないことを意味する)を為しているだけなので、早くこれのために計るべきです」
劉和は呼延攸の甥に当たるため、呼延攸を深く信用してこの進言に頷いた。
夜、劉和は安昌王・劉盛、安邑王・劉欽らを召してこの事を告げた。劉盛は言った。
「先帝の棺が殯にあり(「殯」は埋葬前に棺を安置すること)、四王(光文帝の第四子に当たる劉聡を指す。あるいは、劉聡、劉裕、劉隆、劉乂の四人)にもまだ逆節がありません。一旦にして自ら互いに殺し合ったら、天下は陛下をどうみなすことでしょうか。そもそも、大業は始まったばかりなのです。陛下は讒夫の言を信じて兄弟を疑うべきではありません。兄弟すら信じることができないのに、他人の誰が信じるに足りましょうか」
呼延攸と劉鋭は怒って、
「今日の議に二つの道理はない。領軍は何を言うのだ」
と言い、左右の者に命じて彼を斬殺させた。劉盛が死ぬと、劉欽は懼れて、
「陛下の命に従うだけです」
と、言った。
劉鋭は馬景を率いて単于台で楚王・劉聡を、呼延攸は永安王・劉安国を率いて司徒府で斉王・劉裕を、劉乗は安邑王・劉欽を率いて魯王・劉隆を、そして尚書・田密と武衛将軍・劉璿を派遣して北海王・劉乂に侵攻した。
しかし田密と劉璿は劉乂に強制して関を破らせ、劉聡に帰順した。劉聡は甲冑を身に着けて、待機するように命じ、備えをしっかりとした。
劉鋭は劉聡に備えがあると知って馳せ還った。呼延攸、劉乗と共に劉隆、劉裕を攻めた。そんな中、呼延攸と劉乗は劉安国と劉欽に異志があると疑い、殺害した。
劉裕と劉隆は敗れ、斬られた。
「ここで戦わなければ、滅びるだけだ」
劉聡は反撃して西明門を攻略した。劉鋭らは逃走して南宮に入り、劉聡の前鋒がその後に続いた。劉聡は光極西室に乗り込み、劉和を殺し、劉鋭、呼延攸、劉乗を捕えて、大通りで首を斬って晒した。
群臣が劉聡に対して帝位に即くように請うたが、劉聡は、北海王・劉乂が単后の子だったため、位を譲ろうとした。
ところが劉乂は涕泣して頑なに劉聡に即位を請うた。
劉聡は久しくしてやっと同意し、こう言った。
「乂および群公は、正に禍難がなお盛んであることを理由に、私が年長であるとし、即位を求めただけである。これは国家の大事であり、私がなぜ敢えて辞退できるだろうか。乂が年長になるのを待って、大業を帰すことにする」
こうして劉聡が即位した。以後、漢趙の昭武帝とする。
昭武帝は大赦を行い、光文帝の河瑞二年から光興元年に改元した。単氏を尊んで皇太后とし、実母の張氏を帝太后にした。そして劉乂を皇太弟・領大単于・大司徒にした。
妻の呼延氏を皇后に立てた。因みに呼延皇后は光文帝の従妹である。
子の劉粲を河内王に、劉易を河間王に、劉翼を彭城王に、劉悝を高平王に封じた。
更に劉粲を撫軍大将軍・都督中外諸軍事に任命し、石勒を并州刺史に任命して汲郡公に封じた。
略陽臨渭氐の酋・蒲洪は驍勇で権謀も多かったため、群氐に畏服されていた。
昭武帝・劉聡が使者を派遣して蒲洪を平遠将軍に任命したが、蒲洪はこれを受け入れず、自ら護氐校尉・秦州刺史・略陽公を称した。




