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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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漢趙の猛攻

 天水の人・訇琦こうきらが成漢の太尉・李離りりと尚書令・閻式えんしきを殺し、梓潼を挙げて晋の羅尚らしょうに降った。


 李離の死に、成漢の武帝・李雄りゆうは大いに悲しんだ。李離は彼にとって時に励まし、共に戦い続けてきてくれた人物である。その彼を失ったことは大きかった。


「敵を討たねばなるまい」


 そう言って武帝は太傅・李驤りじょう、司徒・李雲りうん、司空・李璜りこうを派遣して攻撃させた。しかし勝利できず、李雲と李璜は戦死してしまった。


 かつて譙周の子が巴西に住んでいたが、成漢の巴西太守・馬脱ばえつに殺されたため、その子・譙登しょうとうが劉弘を訪ねて復讎のために兵を請うた。


 劉弘は上表して譙登を梓潼内史とし、自分で巴・蜀の流民を募らせた。それにより譙登は二千人を得ると、西上して巴郡に至った。そこで羅尚にも増兵を求めたが、得られなかった。


 譙登は進軍して宕渠を攻め、馬脱を斬ってその肝を食した。


 ちょうどその時、梓潼が晋に降った。譙登はそれを機に兵を進めて涪城を占拠した。武帝が自ら譙登を攻めたが、敗戦した。


 それを受け、成漢の太尉・李国りこくが巴西を守っていたが、その帳下・文石ぶんせきが李国を殺し、巴西を挙げて晋の羅尚に降った。









  十一月、漢趙の楚王・劉聡りゅうそうと始安王・劉曜りゅうようが平陽に還った。


 王彌おうびは南に向かって轘轅(地名)を出た。


 潁川、襄城、汝南、南陽、河南にいる数万家の流民は、以前から居民に苦しめられていたため、皆、城邑を焼いて太守や県官を殺し、王彌に応じた。王彌はそれによって兵力を回復させた。


 その間、漢趙の石勒せきろくは軍を動かして信都を侵して冀州刺史・王斌おうふを殺した。


 それを知ると晋の王浚おうしゅんは自ら冀州刺史を兼任すると宣言し、軍を動かし始め、更に晋の朝廷に援軍を求めた。


 朝廷はそれを受けて詔を発し、車騎将軍・王堪おうたんと北中郎将・裴憲はいけんに兵を指揮して石勒を討たせることにした。


 石勒はそれを知ると兵を率いて還り、王堪らを防いだ。


「戦いを長引かせては不利になります。ここは敵の虚を突きましょう」


 張賓ちょうひんはそう進言すると晋の魏郡太守・劉矩りゅうきょを説得し、郡を挙げて石勒に降らせた。それにより、石勒は黎陽へ回り込んだ。それを見て動揺した裴憲は軍を棄てて淮南に奔り、王堪は退いて倉垣を守った。


 九月、劉聡は浚儀を包囲した。晋は平北将軍・曹武そうぶを派遣してこれを討とうとしたが、敗北した。


 東海王・司馬越しばえつはその状況を受け、京城に入って守った。劉聡は西明門に至ったが、司馬越がこれを防ぎ、宣陽門外で戦って大破してみせた。


 その間に、石勒は常山へ侵攻すると安北将軍・王浚が主簿・祁弘きこうと段部の大人・段務勿塵らに十万を超える騎兵を指揮させ、飛龍山で石勒を大破した。


 一方、劉聡は洛陽西明門を攻めたが、勝利できないでいた。そこに乞活の帥・李惲りこん薄盛はくせいらが兵を率いて奇襲を仕掛けたことにより、劉聡は退走した。


 李惲らは更に新汲で王彌も破った。


 十二月、漢趙の光文帝・劉淵りゅうえんは陳留王・劉歓楽りゅうかんらくを太傅に、楚王・劉聡を司徒に、江都王・劉延年りゅうえんねんを大司空にした。


 都護大将軍・曲陽王・劉賢りゅうけんと征北大将軍・劉霊りゅうれい、安北将軍・趙固ちょうこ、平北将軍・王桑おうそうを東に派遣して内黄に駐屯させた。


 王彌が上表して左長史・曹嶷そうぎょくに安東将軍を代行させ、東進して青州を攻略させて、併せて家族を迎え入れる許可を求めた。


 光文帝はこれに同意した。


 以前、東夷校尉・勃海の人・李臻りしんと王浚は共に晋室を輔佐することを約束したが、王浚が内に異志を抱いたため、李臻はこれを恨んだ。


 和演が死んだ時(304年)、別駕・昌黎の人・王誕おうたんが逃亡して李臻に帰順し、挙兵して王浚を討つように説得した。


 李臻は子の李成りせいに兵を率いて王浚を撃たせようとした。ところが、遼東太守・龐本(ほうほんが以前から李臻と対立していたため、虚に乗じて李臻を襲って殺し、人を派遣して無慮で李成も殺した。


 王誕は逃亡して慕容廆ぼようかいに帰順した。


 晋の朝廷は詔を発して、勃海の人・封釋ほうしゃくを李臻の代わりに東夷校尉にした。


 龐本は封釋も殺そうと謀った


 しかし、封釋の子・封悛ほうしゅんが進言して、封釋に伏兵を置いてから龐本を招くように勧め、龐本を捕えて斬った。そしてその家族も全て誅殺した。


 310年


 漢趙の光文帝は単徵たんびの娘(単徵は氐族の酋)を皇后に、梁王・劉和りゅうわを皇太子に立てて、大赦した。


 子の劉乂りゅうがいを北海王に封じ、長楽王・劉洋りゅうようを大司馬に任命した。


 そのころ、石勒は黄河を渡り、白馬を攻略した。王彌も三万の兵を率いて合流し、共に徐・豫・兗州を侵した。


 二月、石勒は鄄城を襲い、兗州刺史・袁孚えんふを殺した。更に倉垣を攻略して王堪を殺した。その後、黄河を北に渡り、冀州諸郡を攻めた。民で石勒に従う者は九万余口に上ったという。


 太傅・司馬越はこの状況で兵と人材を欲し、建威将軍・呉興の人・銭璯ぜんかいと揚州刺史・王敦おうとんを召還した。


 しかし銭璯は王敦を殺して反しようと謀ったため、王敦は建業に奔って琅邪王・司馬睿しばえいに報告した。


 銭璯はそのまま反乱を起こし、陽羨に侵攻した。


 司馬睿は将軍・郭逸かくいつらを派遣して銭璯を討たせた。


 周玘しゅうきも郷里の者を糾合し、郭逸らと共に銭璯を討って斬った。周玘は江南の混乱を毎回、平定した功績をもって司馬睿は周玘を呉興太守に任命し、郷里に義興郡を置いて表彰した。


 漢趙の曹嶷が大梁から兵を率いて東に向かい、至る所を全て下した。こうして東平を攻略し、琅邪に進攻した。


 王浚の将・祁弘が漢趙の冀州刺史・劉霊を広宗で敗って戦死させた。



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