漢趙の猛攻
天水の人・訇琦らが成漢の太尉・李離と尚書令・閻式を殺し、梓潼を挙げて晋の羅尚に降った。
李離の死に、成漢の武帝・李雄は大いに悲しんだ。李離は彼にとって時に励まし、共に戦い続けてきてくれた人物である。その彼を失ったことは大きかった。
「敵を討たねばなるまい」
そう言って武帝は太傅・李驤、司徒・李雲、司空・李璜を派遣して攻撃させた。しかし勝利できず、李雲と李璜は戦死してしまった。
かつて譙周の子が巴西に住んでいたが、成漢の巴西太守・馬脱に殺されたため、その子・譙登が劉弘を訪ねて復讎のために兵を請うた。
劉弘は上表して譙登を梓潼内史とし、自分で巴・蜀の流民を募らせた。それにより譙登は二千人を得ると、西上して巴郡に至った。そこで羅尚にも増兵を求めたが、得られなかった。
譙登は進軍して宕渠を攻め、馬脱を斬ってその肝を食した。
ちょうどその時、梓潼が晋に降った。譙登はそれを機に兵を進めて涪城を占拠した。武帝が自ら譙登を攻めたが、敗戦した。
それを受け、成漢の太尉・李国が巴西を守っていたが、その帳下・文石が李国を殺し、巴西を挙げて晋の羅尚に降った。
十一月、漢趙の楚王・劉聡と始安王・劉曜が平陽に還った。
王彌は南に向かって轘轅(地名)を出た。
潁川、襄城、汝南、南陽、河南にいる数万家の流民は、以前から居民に苦しめられていたため、皆、城邑を焼いて太守や県官を殺し、王彌に応じた。王彌はそれによって兵力を回復させた。
その間、漢趙の石勒は軍を動かして信都を侵して冀州刺史・王斌を殺した。
それを知ると晋の王浚は自ら冀州刺史を兼任すると宣言し、軍を動かし始め、更に晋の朝廷に援軍を求めた。
朝廷はそれを受けて詔を発し、車騎将軍・王堪と北中郎将・裴憲に兵を指揮して石勒を討たせることにした。
石勒はそれを知ると兵を率いて還り、王堪らを防いだ。
「戦いを長引かせては不利になります。ここは敵の虚を突きましょう」
張賓はそう進言すると晋の魏郡太守・劉矩を説得し、郡を挙げて石勒に降らせた。それにより、石勒は黎陽へ回り込んだ。それを見て動揺した裴憲は軍を棄てて淮南に奔り、王堪は退いて倉垣を守った。
九月、劉聡は浚儀を包囲した。晋は平北将軍・曹武を派遣してこれを討とうとしたが、敗北した。
東海王・司馬越はその状況を受け、京城に入って守った。劉聡は西明門に至ったが、司馬越がこれを防ぎ、宣陽門外で戦って大破してみせた。
その間に、石勒は常山へ侵攻すると安北将軍・王浚が主簿・祁弘と段部の大人・段務勿塵らに十万を超える騎兵を指揮させ、飛龍山で石勒を大破した。
一方、劉聡は洛陽西明門を攻めたが、勝利できないでいた。そこに乞活の帥・李惲、薄盛らが兵を率いて奇襲を仕掛けたことにより、劉聡は退走した。
李惲らは更に新汲で王彌も破った。
十二月、漢趙の光文帝・劉淵は陳留王・劉歓楽を太傅に、楚王・劉聡を司徒に、江都王・劉延年を大司空にした。
都護大将軍・曲陽王・劉賢と征北大将軍・劉霊、安北将軍・趙固、平北将軍・王桑を東に派遣して内黄に駐屯させた。
王彌が上表して左長史・曹嶷に安東将軍を代行させ、東進して青州を攻略させて、併せて家族を迎え入れる許可を求めた。
光文帝はこれに同意した。
以前、東夷校尉・勃海の人・李臻と王浚は共に晋室を輔佐することを約束したが、王浚が内に異志を抱いたため、李臻はこれを恨んだ。
和演が死んだ時(304年)、別駕・昌黎の人・王誕が逃亡して李臻に帰順し、挙兵して王浚を討つように説得した。
李臻は子の李成に兵を率いて王浚を撃たせようとした。ところが、遼東太守・龐本が以前から李臻と対立していたため、虚に乗じて李臻を襲って殺し、人を派遣して無慮で李成も殺した。
王誕は逃亡して慕容廆に帰順した。
晋の朝廷は詔を発して、勃海の人・封釋を李臻の代わりに東夷校尉にした。
龐本は封釋も殺そうと謀った
しかし、封釋の子・封悛が進言して、封釋に伏兵を置いてから龐本を招くように勧め、龐本を捕えて斬った。そしてその家族も全て誅殺した。
310年
漢趙の光文帝は単徵の娘(単徵は氐族の酋)を皇后に、梁王・劉和を皇太子に立てて、大赦した。
子の劉乂を北海王に封じ、長楽王・劉洋を大司馬に任命した。
そのころ、石勒は黄河を渡り、白馬を攻略した。王彌も三万の兵を率いて合流し、共に徐・豫・兗州を侵した。
二月、石勒は鄄城を襲い、兗州刺史・袁孚を殺した。更に倉垣を攻略して王堪を殺した。その後、黄河を北に渡り、冀州諸郡を攻めた。民で石勒に従う者は九万余口に上ったという。
太傅・司馬越はこの状況で兵と人材を欲し、建威将軍・呉興の人・銭璯と揚州刺史・王敦を召還した。
しかし銭璯は王敦を殺して反しようと謀ったため、王敦は建業に奔って琅邪王・司馬睿に報告した。
銭璯はそのまま反乱を起こし、陽羨に侵攻した。
司馬睿は将軍・郭逸らを派遣して銭璯を討たせた。
周玘も郷里の者を糾合し、郭逸らと共に銭璯を討って斬った。周玘は江南の混乱を毎回、平定した功績をもって司馬睿は周玘を呉興太守に任命し、郷里に義興郡を置いて表彰した。
漢趙の曹嶷が大梁から兵を率いて東に向かい、至る所を全て下した。こうして東平を攻略し、琅邪に進攻した。
王浚の将・祁弘が漢趙の冀州刺史・劉霊を広宗で敗って戦死させた。




