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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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何綏

 309年


 正月、熒惑(火星)が紫微(紫微宮。天帝の住居。皇宮を象徴する)を侵した。


 漢趙の太史令・宣于脩之せんうしゅうしが漢趙の光文帝・劉淵りゅうえんに言った。


「熒惑が紫微を侵したので、三年を出ずに必ず洛陽を攻略できましょう。蒲子は崎嶇(凹凸が多い様子)としているので、久しく安居するのは困難です。平陽の気象がまさに旺盛になっているので、都をそこに遷すことを請います」


 光文帝はこれに従い、大赦して河瑞元年に改元した。


 因みに進言を行った宣于脩之は『晋春秋』は「鮮于脩之」としており、『晋書・載記』『十六国春秋』では「宣于脩之」としている。『資治通鑑』は後者に従っている。しかし胡三省自身は、


「姓氏の諸書を考察するに、『鮮于』という氏はあっても『宣于』はない。恐らくは『鮮于』とするのが正しいはずだ」


 と、述べている。









 三月、晋の征南大将軍・高密王・司馬略しばりゃくが死んだ。


 朝廷は尚書左僕射・山簡さんかんを征南将軍・都督荊湘交広四州諸軍事に任命し、司馬略の代わりに襄陽を鎮守させた。


 山簡は山濤の子で、酒を好んで政事に関心を持たなかった人で「山翁」、「山公」と呼ばれている人物である。


「詩仙」と称えられた李白が著した「秋穂歌」には『酔うて上る 山公の馬』という記述があることで有名である。


 山簡は帽子を後ろ向きに被り、馬に後ろ向きで乗馬するといった奇行を度々犯していたため、当時、襄陽で流行った童謡に歌われたのを記述したものである。


 彼の父・山濤は老荘思想の人で、竹林の七賢と謳われた人物であった。しかしながら彼は政治に関わりが強かった人でもあった。そのことへの批難を行った生き方を山簡はしているのかもしれない。


 その山簡が、


「順陽内史・劉璠りゅうはんは衆心を得ているので、百姓が劉璠に迫って主に立てる恐れがあります」


 と、上表したため、朝廷は劉璠を召還して越騎校尉にした。その結果、荊州が乱れるようになり、父老で劉弘を懐かしまない者はいなかったという。







 


 晋の太傅・司馬越しばえつが滎陽から京師に入った。


 中書監・王敦おうとんが親しくしている者に言った。。


「太傅(司馬越)は威権を独占しているのに、官員を用いる時は上表によって許可を求めており、尚書も司馬越に全権を委ねず、旧制に基いたまま司馬越の上表を裁決している。今日、太傅が来朝したが、必ず太傅の専権を妨害している者が殺されるはずだ」


 西晋の懐帝・司馬熾しばしは太弟だった頃、中庶子・繆播きゅうはんと親善な関係にあったため、即位すると繆播を中書令に任命し、繆胤きゅういん(繆播の従弟)を太僕卿に任命して、心膂(心臓と脊髄。中枢、重要な任務を指す)を委ねた。


 また、懐帝の舅(母の兄弟)に当たる散騎常侍・王延おうえんや尚書・何綏かあん、太史令・高堂沖こうどうちゅうにも並んで機密に参与させた。


 その状況を受け、司馬越は朝臣が自分に対して二心を抱いているのではないかと疑い、劉輿りゅうよ潘滔はんとうも司馬越に進言して繆播らを全て誅殺するように勧めた。


 そこで司馬越は繆播らが乱を為そうと欲している、と誣告した。


 司馬越が平東将軍・王秉おうじょうを派遣し、甲士三千を率いて入宮させた。懐帝の側で繆播ら十余人を捕え、廷尉に送って殺してしたが、懐帝は嘆息して涙を流すだけであった。


 何綏は晋の功臣・何曾の孫である。


 以前、何曾が武帝の宴に侍り、退席してから諸子にこう言った。


「主上は大業を開創したが、私が宴見(朝会以外の時間に招かれること)される時はいつも経国の遠図(国を経営するための遠謀)を聞いたことがなく、ただ、平生の常事(日常のありふれた事)だけを語っている。これは子孫に謀を残す道ではない。安泰でいられるのは自身だけで、後嗣は危うくなるだろう。但し汝ら(何曾の諸子)はまだ禍から免れることができる」


 何曾は続けて諸孫を指さし、


「彼らには必ずや難が及ぶだろう」


 と言った。何綏が死ぬと、兄の何嵩かすうが哭して、


「我が祖父は聖人だったのではないか」


 と言った。


 また、何曾は一日の食事で一万銭を使い、それでも「箸を下す場所がない(食べる物がない)」と言った。更に何曾の子・何劭かしょうは一日の食事で二万銭を使うようになり、何綏およびその弟の何機かき何羨かせんも驕奢がますます甚だしく、人に送った書信は詞礼が傲慢であった。


 河内の人・王尼おうじが何綏の書を見て人に、


「伯蔚(何綏の字)は乱世にいながら傲慢過ぎる。どうして禍から免れられるだろうか」


 と言うと、その人は、


「伯蔚が汝の言を聞いたら、必ず危害を加えるはずだ」


 と言った。王尼は笑ってこう答えた。


「伯蔚が私の言を聞いた時には、彼自身が既に死んでいるさ」


 永嘉の末には、何氏は後代がいなくなった。








 晋の太尉・劉寔りゅうしょくは連年、老齢を理由に引退を請うたが、朝廷が同意しなかった。尚書左丞・劉坦りゅうかんが上奏した。


「古の養老は、不事(君王に仕えさせないこと。官職を与えないこと)を高齢の者への優遇とみなし、任官することは尊重とみなしませんでした。思うに、劉寔が堅持している意見に同意なさるべきです」


 詔によって劉寔を侯爵のまま家に帰らせた。


 代わりに司徒・王衍おうえんを太尉に任命し、太傅・司馬越が兗州牧の官を解いて司徒を兼任することになった。


 司馬越は、近年に起きた変事の多くが宮廷から発していたため、上奏して宿衛で侯の爵位がある者を全て罷免した。当時、殿中の武官は並んで封侯されていたので、ほとんどの者が殿中から出されることになり、皆、涕泣して去った。


 司馬越は改めて右衛将軍・何倫かりんと左衛将軍・王秉に東海国の兵数百人を統領させて宿衛するように命じた。


 胡三省は、


「ここから帝の左右は皆、司馬越の私人になった」


 と書いている。

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