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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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漢趙成立

 

 漢王・劉淵りゅうえんは撫軍将軍・劉聡りゅうそうらの十将を派遣し、南に向かって太行を占拠させた。また、輔漢将軍・石勒せきろくら十将を派遣し、東に向かって趙・魏を攻略させた。


 石勒が常山を侵したが、王浚おうしゅんがこれを討って破った。


 その頃、王彌おうびが逃亡離散した者を收集すると、再び勢力を盛り返した。諸将を分けて派遣し、青・徐・兗・豫の四州を略奪させた。通過した場所で郡県を攻め落とし、多くの太守・県令を殺して、兵の数は数万となった。


 その勢いの様は、苟晞こうきが王彌と連戦したが、勝利できないほどであった。


 四月、王彌が許昌に入った。諸郡の守将が皆、奔走した。


 太傅・司馬越しばえつは司馬・王斌おうふを派遣し、兵五千人を率いて京師に入って防衛させた。涼州の張軌ちょうきも督護・北宮純ほくきゅうじゅんを派遣して、兵を率いて京師を守らせた。


 五月、王彌が轘轅(地名)から侵入し、伊北(伊水の北)で官軍を破った。京師が大いに震え、昼でも宮城の門が閉じられるようになった。


 王彌が洛陽に至って津陽門(洛陽城南面の東から二番目の門)に駐屯した。


 西晋の懐帝・司馬熾しばしは詔によって司徒・王衍を都督征討諸軍事に任命し、防衛を行わせることにした。


 王彌がついに洛陽を侵した。しかし、王衍が兵を指揮してこれを防いだ。その間に、北宮純が勇士百余人を募って陣に突撃すると、王彌の兵は大いに敗れて退走した。


 敗れた王彌は建春門を焼いてから東に向かった。王衍が左衛将軍・王秉おうじょうを派遣して追撃させ、七里澗で戦ってまた王彌を敗った。


 王彌は逃走して河を渡り、王桑おうそうと共に軹関から平陽に入った。

 

 漢王・劉淵が侍中兼御史大夫を派遣して郊外で王彌らを迎えさせ、令を下して、


「私は自ら将軍の館に行き、座席を拭いて杯を洗い、恭敬な態度で将軍を待とう」


 と、伝えた。


 王彌が到着すると、劉淵は王彌を司隸校尉に任命して侍中・特進を加え、王桑を散騎侍郎にした。


 北宮純らが漢趙の劉聡と河東で戦い、これを敗った。


 この功績を元に懐帝が詔を発して張軌を西平郡公に封じたが、張軌は辞退して受け入れなかった。


 当時、州郡の使者で朝廷に至る者はいなくなっていたが、張軌だけは使者を派遣して貢物を献上し、毎年途絶えさせなかった。勤皇を示し続けるのが難しい時代においてこれを継続できるだけでも張軌の手腕は見事であると言わざる負えない。


 七月、漢王・劉淵が平陽を侵した。


 晋の太守・宋抽そうちゅうは郡を棄てて京師に奔り、河東太守・路述ろじゅつが力戦の果て、戦死した。


 劉淵は都を蒲子に遷した。上郡鮮卑・陸逐延りくちくえんと氐酋・単徵たんびが共に漢(劉淵)に降った。


 九月、漢の王彌と石勒せきろくが鄴を侵し、和郁わいくが城を棄てて逃走した。


 懐帝が詔を発し、王彌を防ぐために豫州刺史・裴憲はいけんを白馬に駐屯させ、石勒を防ぐために車騎将軍・王堪おうたんを東燕に駐屯させた。また、蒲子(漢都)に備えるため、平北将軍・曹武そうぶを大陽に駐屯させた。


 この中の裴憲は字を景思といい、裴楷(晋初の大臣)の子である。


 幼くして聡明であり、軽侠(義を重んじる侠士を気取って無行を繰り返すものたち)と好んで交流したという。二十歳になると、節を曲げて他人の意見を聞き入るようになり、厳粛にして分を弁えるようになった。儒学を修め、数年に渡って郷里から出ようとしなかった。


 陳郡出身の謝鯤しゃこん・潁川郡出身の庾敳ゆがいはいずれも俊逸な人物であったが、裴憲と会うとこれをただ者では無いと思い、互いに、


「裴憲は剛直にして誠実であり、その才識は遠大である。機に通じて命を識っており、父と比較されている理由が分からぬ。父の要素を保ちながらもより広く深く至っており、世間の俗事には心を傾けておらず、その殆どが父を越えている」


 と、称賛したという。


 やがて西晋に仕官すると、東宮の侍講(皇族に学問を教える役職)に任じられ、さらに黄門吏部郎・侍中を歴任した。


 十月、漢王・劉淵は皇帝の位に即き、大赦して元熙五年から永鳳元年に改元した。


 劉淵の諡号は光文帝である。国号は「漢」としたが、後に「趙」に改められるため、通常は「前趙」「漢趙」と呼ばれている。以降は彼のことは漢趙の光文帝とすることにする。

 

 十一月、光文帝が子の劉和りゅうわを大将軍に、劉聡を車騎大将軍に、族子(同族兄弟の子)の劉曜りゅうようを龍驤大将軍にした。


 晋の并州刺史・劉琨りゅうこんが上党太守・劉惇りゅうとんに鮮卑を率いさせて、壺関を攻撃させた。


 漢趙の鎮東将軍・綦毋達きぼたつが劉惇と戦ったが、敗れて逃げ帰った。


 石勒と劉霊りゅうれいが三万の兵を率いて魏郡、汲郡、頓丘を侵した。百姓で石勒らの声望を聞いて投降・帰順した者は五十余塁に上った。


 石勒らは全ての塁主に将軍や都尉の印綬を授け、強壮な者・五万人を選んで軍士とし、老弱の者は今まで通り安居させた。


「殺し合いできないやつを連れて行く必要は無い」

 

 石勒は魏郡太守・王粹おうすいを三台で捕えて殺した。


 因みに「三台」とは鄴城西北の銅雀台、金雀台、冰井台を指す。


 漢趙の光文帝が将軍・劉和を大司馬に任命して梁王に封じ、尚書令・劉歓楽りゅうかんらくを司徒に任命して陳留王に封じた。


 また、皇后の父・御史大夫・呼延翼こよえんよくを大司空に任命して雁門郡公に封じた。


 その他の宗室も親疏に基いて全て郡県の王に封じ、異姓の臣は功績に基いて全て郡県の公侯に封じた。











 成漢の尚書令・楊褒ようほうが死んだ。


 楊褒は直言を好みました。


 成漢の武帝・李雄りゆうが蜀を得たばかりの頃は費用が不足していたため、諸将の中には金銀を献上することで官を得た者もいた。


 そこで楊褒が諫めてこう言った。


「陛下が官爵を設けたら、天下の英雄豪傑を網羅されるべきです。どうして官によって金を買うのでしょうか?」


 武帝は楊褒に謝った。


 以前、武帝が酔って中書令を押したり、太官令を杖で打ったことがあった。楊褒が進み出て言った。


「天子は穆穆とし、諸侯は皇皇とするものです(「穆穆」は厳粛で冷静なこと、「皇皇」は儀容を正して恭敬なこと。『礼記』の言葉)。天子になりながら酗を為す者がどこにいるでしょう(「酗」は見境なく飲酒すること、または悪酔いすること)」


 武帝は慚愧して止めた。


 成漢の平寇将軍・李鳳りおうが晋寿に駐屯した。李鳳がしばしば漢中を侵したため、漢中の民は東の荊沔に走った


 晋懐帝が詔によって張光ちょうこうを梁州刺史に任命した。


 また、荊州の寇盗を禁じることができなくなっていたため、詔によってかつて荊州の地で人望のあった劉弘の子・劉璠りゅうはんを起用し、順陽内史にした。江・漢の間が翕然(一斉に行動する様子、または和順の様子)と帰順した。


 



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― 新着の感想 ―
[一言] ともに、本人はずばぬけてとまではいかなくても優秀であったのに、前任者の時代がひどすぎた懐帝と、後継者に恵まれなかった劉淵…対象的ですよね。
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