鮮卑の若者
一人の傑物の名前が現れた。その傑物の名は慕容廆という。その彼が歴史上に出てきた理由は命の危機に瀕していたためである。
鮮卑の慕容渉帰が世を去った。
そのまま嫡男である慕容廆が継ぐはずだったのだが、叔父の慕容刪が位を奪って立ってしまった。あっさりと事が行われたが、これは慕容廆に人望がなかったというよりは若すぎて上に立つのに皆、不安を感じたというのが強いのだろう。
そのことは慕容刪が慕容廆を殺そうとしていることを慕容廆に伝えた者たちがいることからわかる。
「皆、感謝するぞ」
慕容廆は明るく伝えてくれた者に感謝を伝えると逃亡した。彼は幼い頃から立派な体躯と美しい容姿を持った若者で叔父が位を奪おうとも、そのことを誰も止めようとしなかったことに恨み言一つもらすことはなかった。
「だが、命まで奪われるのは勘弁である」
そう彼は呟きながら追手から逃れた。
「さて、どこに逃げるか」
逃げるにしても逃げ先に検討があるわけではない。そう思いながら追手を切り捨てていくと大木の近くに来た。そして、ふと上を見上げると黄色い服の男が大木の枝に腰かけていた。
(ふむ、これが怪異と言うやつかな?)
そう思うほど不思議な印象を感じていると黄色い服の男が南の方角を指さした。
「南へ行け、そこに小さな家がある。その家主である遼東の徐郁が汝を救うだろう」
指さした先を慕容廆が見た瞬間に黄色い服の男は消えていた。
「ふむ、神か妖か……どちらの言葉であっても生きれというのであれば、生きねばならぬな」
そう言って彼は南に向かって駆け出した。
追手を切り捨てながら駆けていると小さな家が見えた。近くには白馬が草を食べている。
「あれか」
慕容廆はそこに向かって一直線に向かうとそのまま小さな扉を開いた。中は暗く、奥の席に老人が一人座っていた。
「遼東の徐郁殿、助けていただきたい」
何の遠慮もなく、そう言う彼に老人……徐郁は鼻で笑った。
「鮮卑か……」
「そうだ」
「なぜ、漢人のわしがお前さんを救わねばならぬのか」
「それは知らん。遼東の徐郁ならば救ってくれると言われたが故に来たのだ」
腕を組みながらそう言う慕容廆にますます怪訝そうな表情を徐郁は向ける。
「それを馬鹿正直に信じて見知らぬわしの元に来たと?」
「そうだ」
慕容廆は自信満々に言った。そんな彼に徐郁は愉快そうに笑った。
「久しぶりにお前さんのような馬鹿に会ったわい」
老人はそう言うと立ち上がり、彼の腕を取った。
「こっちじゃ」
慕容廆にそう言って、家に入れた。
「ここに隠れておれ」
徐郁は彼を席の裏側に隠れ潜ませた。少し何かを弄ったような音がした後、徐郁が席に座った音が聞こえた。
(さて、どうなるか……)
ここまでくれば徐郁とやらを信じるしかない。少しして、家に追っ手らしき者たちがやってきた。
「どこだ……」
「知らぬ……」
微かな会話を聞きながら慕容廆は静かに目を閉じる。家の中を動かす音が聞こえる。何かを倒した音も聞こえた。やがて座っていた徐郁が離れる音も聞こえた。
(見つかるか……)
そう思ったがしばらくして音がしなくなった。
「もう良いぞ」
徐郁の声が聞こえ、慕容廆は席の裏側から出た。
「お前さんの追手はもうおらん」
「感謝する」
慕容廆は彼に頭を下げる。
「お礼なんぞ。良い……」
「何を言われる。いつ死ぬかわからぬ世なのだ。言えるうちに言っておかねばなるまい」
慕容廆の言葉に対して徐郁は鼻で笑う。
「鮮卑にもお前さんのような者がいるのだな」
「漢人にもあなたのようなものがいるのですから、私のような者がいてもおかしくはないでしょう」
彼の言動に徐郁は呆れつつも苦笑する。
「さて、徐郁殿。この度は助けて下さって感謝する。だが、このまま厄介し続けてはご迷惑になるだろう。ここで失礼させていただく」
そう言って慕容廆は剣を持って去ろうとした。それを徐郁が止めて言った。
「このまま何処に行くというのだということだ」
「ふむ、特には考えてはいませんが、色んなところを見て回ろうと思います」
「そうか……」
徐郁はそう言ってから少し待つように言うと家の中から木簡を持ってきた。
「これを持って行くと良い」
「これは?」
「安北将軍・都督幽州諸軍事への紹介状じゃ」
慕容廆は目を丸くする。安北将軍・都督幽州諸軍事と言えば、自分とて知っている晋王朝が誇る名臣・張華のことではないか。
「あなたは何者なのでしょうか?」
そんな人物と繋がりがあるということはただの老人ではないはずである。
「わしはしがない老人に過ぎんよ」
しかしながら彼はそう答えるのみであった。
「それを見せれば、安北将軍はお前さんを歓迎するはずじゃ。何の宛もない旅をするよりは良いはずだ」
「なんとお礼を言えばよいのか……」
「良い。ちょっとした気まぐれじゃよ。さあ行くが良い」
徐郁の言葉に慕容廆は頷き、幽州に向かって去っていった。
「傑物は我々漢人からではなく、異民族から出ようとしているか……」
徐郁はそう呟くと家の中に戻っていった。
張華は誰であっても分け隔てなく慰撫を行ったため、多くの異民族や漢民族も張華に心を寄せて慕われていた。東夷の馬韓や新彌の諸国は幽州から四千里余りの彼方にあり、歴代に渡って中華王朝への従属を拒んできたにも関わらず、彼の統治以降はこれら二十数ヶ国から朝貢の使者が到来するようになるほどである。
こうして遠方の異民族が貢物を献上して服従するようになったことで、国境地帯の憂いは無くなり、穀物は良く実り、兵馬は強く盛んとなったという。
「一人の名臣の手腕でこれほど変わるのだな」
慕容廆はそう言って張華が発展させた地域を見て回った。
(政とはこれほどの力を持っている)
そう思いながら彼は張華の屋敷まで至った。
「鮮卑が何用か」
門番が近づいてきた彼にそう言い放った。
(上が異民族に寛容でも下が同じとは限らないか……)
そのことに対して慕容廆は怒りなどは覚えない。そういうのが普通なのである。
「これを見てもらいたい」
彼は木簡を見せた。門番はしばしそれを見た後、ここで待つように言って門の中に入った。少ししてから門番は戻ってきた。
「入れ」
そう言われ、そのまま屋敷の中を案内された。
「将軍はここにおられる。失礼の無いように」
そう言って門番が扉を開き、入るよう促した。慕容廆は頷き、部屋の中に入った。
部屋の中には数多の書物に囲まれているほっそりとした人物がいた。
「君が慕容廆殿か」
「左様でございます。張華将軍」
「なるほど……徐郁の紹介状にあったように変わった御仁のようだ」
張華はそう言うと慕容廆に座るように促す。慕容廆は座ると徐郁について問いかけた。
「徐郁殿とあなた様はどういう関係なのでしょうか?」
「昔の臣下だったものだ。遼東が故郷でな、私が幽州に来たのを機に、隠居を申し入れたのだ」
「左様でしたか。あの方のおかげで私は命拾いすることができました。お礼申し上げる」
慕容廆がそう言うと張華は私は何もしてないと言う。そして、まじまじと彼のことを見て、
「汝は成長すれば、必ずや命世の器となるであろう。難を正し、時を救う者とは汝のことを言うのだろう」
と、言った。慕容廆は彼の言葉に驚き、感動した。
(この方の言葉には嘘はない)
それがわかるだけに感動したのである。鮮卑である自分をここまで評価してくれたのである。
「恐れ多い言葉です」
頭を下げる彼に張華は笑みを浮かべた後、彼に自分の屋敷の部屋を与えることにした。
「ゆっくりと過ごされると良い」
慕容廆はこうして彼の元で過ごすようになり、張華の政治手腕を目の前で見て学んでいくことになる。
この経験が慕容廆の政治手腕に活かされることになる。




