汲桑
秦州の流民・鄧定、訇氐らが成固を占拠し、漢中を略奪した。梁州刺史・張殷が巴西太守・張燕を派遣してこれを討たせた。
鄧定らは飢餓、困窮していたため、偽って張燕に降り、更に賄賂を贈った。張燕はこれを受け入れて緩師(進軍を緩めること)した。
その間に鄧定は秘かに訇氐を派遣して成漢に救援を求めた。
成漢の武帝・李雄は太尉・李離、司徒・李雲、司空・李璜を派遣し、兵二万を率いて鄧定を救援させた。李離らは張燕と戦い、これを大破した。
張殷と漢中太守・杜孟治は城を棄てて逃走した。
十余日が経ってから、李離らは引き還し、漢中の民を全て蜀に遷した。
しかし漢中の人・句方と白落が吏民を率いて還り、南鄭を守った
西晋の懐帝・司馬熾が自ら大政を観覧して諸事に心を留めたため、太傅・東海王・司馬越はそれを悦ばず、かたくなに出藩(中央を出て地方の長官になること)を求めた。
その後、司馬越は朝廷を出て許昌を鎮守した。
晋が高密王・司馬略を征南大将軍・都督荊州諸軍事に任命して襄陽を鎮守させ、南陽王・司馬模を征西大将軍・都督秦雍梁益諸軍事に任命して長安を鎮守させた。
東燕王・司馬騰を新蔡王に改封し、都督司冀二州諸軍事に任命して引き続き鄴を鎮守させた
公師藩が死んでから、汲桑は逃走して苑中(茌平の牧場)に還り、改めて兵を集めて郡県を襲撃し、略奪を行った。そして自ら大将軍と称して成都王(司馬穎)の仇に報いると宣言した。
汲桑は石勒を前駆にした。石勒は向かう所でことごとく戦勝していった。それほどに彼は強かったのである。
汲桑は石勒を掃虜将軍に任命し、鄴に進攻した。
当時、鄴中の府庫は物資が全くない状態であったが、新蔡王・司馬騰の資財は甚だ豊富であった。しかし司馬騰は性格が吝嗇で、施しをすることがなく、急に臨んでもやっと将士にそれぞれ米数升と帛丈尺(一丈余)を下賜しただけだったため、司馬騰のために働こうとする者はいなかった。
挙句の果てに司馬騰は、
「私は并州に在ること七年となる。胡が城を囲んだ事もあったが、遂に勝つことなど出来なかったのだ。ましてや汲桑は小賊であり、どうして憂うに値しようか」
と述べ、全く備えをしなかったのだ。
五月、汲桑は勢いのまま魏郡太守・馮嵩を大破し、長駆して鄴に入った。恐れた司馬騰は軽騎で出奔したが、汲桑の将・李豊に殺された。
「ちっ俺が殺したかったなあ」
石勒は血まみれの状態でそのことを知り、そう言った。司馬騰は異民族を奴隷にして売り払おとした男である。自分が捕まって奴隷にされたのは間接的に彼のせいであると言えたためである。
そんな中、兵が慌ててこっちにやってきた。
「李豊が死んだ」
「ああ、なんでだ?」
「司馬騰の息子が殺したんですぜ」
「へぇ」
石勒はそれを聞いて、笑みを浮かべると兵に案内するように命じて向かった。
向かうと李豊が水の中に落とされて死んでおり、その傍に彼を殺したであろう大男がいた。
「おめぇが司馬騰の息子か」
石勒はそう言って司馬騰の息子・司馬虞に襲い掛かった。
「ふん、狗風情が」
司馬虞はそう言って矛を振るう。石勒はそれを受け止めようと二振りの小刀を構えるが、凄まじい衝撃が生じ、彼の体はそれをいなすことができず、吹き飛ばされ、壁に激突して倒れこむ。
「くぅ」
「貴様のような異民族風情に私は負けん」
彼はそう言って石勒に向かって矛を振るい下す。その瞬間、石勒は横に転がり、司馬虞の足に小刀を投げつける。
「おのれ、卑怯な」
司馬虞の左足に小刀が刺さり、彼は膝をつく。その瞬間、石勒は飛び上がり、彼の頭を掴むとそのまま膝を叩きこんだ。
それにより、司馬虞は倒れこむと石勒は彼の体に乗ると指で目をつぶした。
「ひ、卑怯な」
「殺し合いに卑怯も何もあるかよ」
はあと呆れるようにため息をつくと石勒はそのままとどめを刺した。
その後、司馬騰の子である司馬矯・司馬紹や、側近の鉅鹿郡太守・崔曼・車騎長史・羊恒・従事中郎・蔡克を始め、鄴にいた諸々の名家らもまた尽く殺害された。
汲桑は成都王・司馬穎の棺を出して車に載せ、事があるたびに司馬穎の棺に報告してから行動するようになった。
自分の発言力を高めるための行為である。
「はん、なんだよあれ」
石勒はそれを見て、呟く。
「つまらねぇことしてるな」
その後、汲桑は鄴宮を焼き、火は十日、経っても消えなかったという。
胡三省は、
「袁紹が鄴を拠点にして宮室の造営を始め、魏武帝(曹操)もそれを増やして拡大した。しかしここに至ってことごとく灰燼となった」
と、書いている。
汲桑は士民一万余人を殺し、大略奪して去った。延津で河を渡ってから、南に向かって兗州を撃った。
それを受け、太傅・司馬越は大いに懼れ、兗州刺史・苟晞と将軍・王讃に汲桑の討伐を命じた。
両軍は平原・陽平の間で対峙して数カ月が経った。大小三十余戦して互いに勝ち負けがあったが、決着が中々つかなかった。
「先鋒の石勒という男が恐ろしいほどに強いな」
苟晞はそう呟いた。
「しかし、如何なる猛将でも数の前では無力よ」
七月、彼は太傅・司馬越に要請し、司馬越に官渡に駐屯してもらい、苟晞の後援に担ってもらうことにした。
八月、苟晞は物資力でこちらの方が余裕ができたため、東武陽で汲桑を撃ち、これを大破した。
汲桑は退いて清淵を守った。苟晞は汲桑を追撃してまた破り、九塁を落とした。死者は一万余人に上った。
汲桑と石勒は兵を収めて漢(劉淵の漢)に奔ろうとした。
「司馬頴のために討つんじゃなかったのか?」
劉淵は晋王朝を完全に否定し滅ぼすつもりで敵対している人物である。司馬頴の敵討ちを標榜しているとは言え、自分たちはどちらかに王朝事態は認めている立場のはずである。
「生き残るためだ」
汲桑からすれば、司馬頴など勢力を広げるための行為なのだ。それに拘る必要などないのだ。
「そうかい」
石勒は面白くなさそうにそう言った。
(なんで、こんなに面白くないと感じるのだろうな)
彼は何とも言えない思いを持ちながら、渋々従った。
彼らは逃走した。しかし冀州刺史・譙国の人・丁紹が赤橋で邀撃してまた汲桑らを破った。
汲桑は茌平の馬牧に走った。しかし、石勒は楽平に奔ることにした。
「本当にいいですかい?」
配下が石勒にそう問いかける。
「いいんだよ」
彼はそういうのみであった。




